おしらせ〜グラフィックノベル「アステリオス・ポリプ」の翻訳をします〜

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珍しい投稿ですが、お知らせしたいことがあります。

 

この度、アメリカ文学者の矢倉喬士さんとの共訳でデイヴィッド・マッズケリ「アステリオス・ポリプ」の翻訳をさせていただくことになりました。

フルカラーかつとてもこだわった装丁で、印刷費などがかかってしまうために、通常の出版ルートで出すことが難しく、この度クラウドファンディングという形で出版を目指すこととなりました。

事前告知ページが公開されましたので、もしご興味があれば、是非下記リンクより「お知らせを受け取る」ボタンで通知の配信登録をお願いいたします。

 

サウザンブックス 「アステリオス・ポリプ」クラウドファンディング事前告知ページTHOUSANDS OF BOOKS

 

「50才男性 中年の危機」の物語ではありますが、主人公アステリオス・ポリプを取り巻く女性キャラクターもとても魅力的です。

アステリオスの元妻で芸術家のハナ、前世でシャーマンだったアステリオスの滞在する家の女主人アースラ、そして脳卒中を起こした夫の介護をし続けるアステリオスの母 アグリアといった女性キャラクターはそれぞれのアステリオスとの関係を通して、アステリオスの物語に対し、決して添え物的なキャラクターとなることなく、客観的・批判的な洞察を加えています。

 

長くなってしまうので...また近いうちにこのグラフィックノベルの魅力をお伝えできたらなと思っております。

 

クラウドファンディングに関連したイベントなどもある予定ですので、こちらも決まり次第ここやツイッターなどでお知らせ予定です。

 

6月のわたしだけのブッククラブ

夏....夏がきている....夏といえばわたしは昨年の夏が本当にトラウマで、気温が上がってくると、自分の家にいても全く心が休まらない。そう、みんなも嫌いなヤツ。ヤツらの季節がくる。去年プロのアドバイスをきいて、GWに家中にブラックキャップを設置した。設置しても設置しても不安で、不安を感じるごとに1箱ずつ追加して今年は家中トータル6パック分くらい置いてる。(さすがに置きすぎ)

そして冬にやろうと思っていたけど水引やっててできていなかった、床のすきま塞ぎも、ぼちぼちやってて、最近は手慣れてきたので、夜中にビール片手にほろ酔いで好きな音楽とかポッドキャストを流しながら、家中のあらゆる隙間をジョイントコークで埋めて回っている。古い家なので埋めでのある隙間がたくさんあり、日々コーキングの腕をメキメキあげている。この前コンセントの工事をしてもらった工務店さんに褒められた。(隙間という隙間を埋めてるので怖かったのだろうか)最近はマスキングしなくてもいい感じにできるようになった。床が終わったら汚れている水回りのコーキングを真っ白に打ち直したいと思っている。隙間埋めの作業はこれが結構楽しい。床の隙間を埋めたかったらわたしをよんでくれ。

しかしながら、BCを設置しても、隙間を埋めても対策が完璧なんてことは一切ないこともわかってる。だから、気分としては「9月が終わったらわたしを起こして」(Green Dayの名曲"Wake me up when September ends“) 9月が終わったらわたしを起こして...残暑厳しければ10月でも大丈夫です...(そいえばなんかで「史上最も過大評価されてるバンドはグリーンデイて言われてて爆笑した。それでもやっぱ名曲は名曲だよね)

今月は英語の本しか読みたくなくて、Kindleばっかり連れて歩いていた。いい加減Koboかおうとおもっているんだけど、貧乏性なのでまだ壊れてもいないKindleを打ち捨てられないのよね。

 

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Akwaeke Emezi "You made a fool of death with your beauty"

いや〜すごい作家だわ、たとえば(例えは悪いけど&ケヴィン・クワン好きだけど)ケヴィン・クワンはCrazy Rich Asiansみたいな系統の本しか書けない(3部作の次に出したのもファッション業界で働く女の子の話だったし)作家なんだとおもっているんだけど(それが悪いということではなくて、Crazy Rich Asians面白いし)その点、Akwaeke Emeziは毎度全く違う作風の小説を短スパンでリリースしてるんだから驚く。(作家としてのキャリアが5年ですでに7作、YAからロマンス、エッセイまで5つのジャンルにわたる作品を出してる)

今回は作家自身が「はじめての商業的作品だった(ので宣伝もいちばん豪華だった)」と言っているようにロマンス小説で、これまた、男友達に誘われて実家に行ったら実家がクレイジーリッチでした!の話なのね。しかも実家がクレイジーリッチのみならず、男友達の父ちゃんが激イケでどうしよう...っていう話で。カリブの島にある男友達の実家に到着したときの描写は「オッ!クレイジーリッチアジアンズのシンガポールの豪邸とどっちがすごいかしら?!」なんつって下世話心が疼く。「生きるということはRecklessな行動を行うこと、向こうみずになること」というテーマの下には愛する人の死を経験した者同士の結びつきも描かれていた。しかし激動ロマンスからは縁遠い人生を送っているわたしからすれば、いくらなんでもNasir(男友達)かわいそすぎるよね〜と思ったんだけど。しかも当たり前のように怒り狂ったら怒る方が悪いみたいになってて超気の毒。でも違うんだよね、生きることは愛すること、家族をぶっ壊してでもテイクチャンス!なんだねえ...この本では。けど自分の父親みたいな年齢の人とのロマンスっていくらセクシーに熱く描かれたところで「お、おう」の気持ちしかなくない?!まあそこをファンタサイズするような話ではなかったけど。あととにかく事前に何度も「いいの?」「いいの?」つって同意を得るので安心はする。読者としては途中で「おじいちゃん!!おじいちゃん!!(大声)聞こえてないの??だから!彼女さんいいって何度も言ってるよ!!」とはなりました。

Emeziの作品はいままでエッセイしかよんだことがなくて、しかもそのエッセイもだいぶセンチメンタルかつ傲慢なかんじだったので、まさかこんな商業的ロマンス作品(2022のBeach Reads間違いなし!ビーチ&太もも&本の写真がたくさんインスタにあがりそう!)を書くとは思ってなくてびっくりでした。びっくりついでに未読だった他の作品も2冊買った。

ちなみにこの作品はマイケル・B・ジョーダンの制作会社とAmazonスタジオが映像化権を取得しているそうで...どんな映像になるのか楽しみ。カリブ版クレイジーリッチといった趣の豪邸描写、楽しみにしてます。こちらの豪邸は家にインフィニティプールがあって白い孔雀が庭を歩いてる。こういうびっくりするほどデカくて、豊かすぎる自然に囲まれてる家って迫り来る自然問題どうしてんの??雑草とか??虫もすごいでしょ??虫に関する記述いっこもないけど??と思ったが専任庭師がいたので伸び盛る草木に関しては有り余る金で解決してた。家の中に入ってくる虫に関しては家がデカすぎて虫と遭遇しない利点がありそう。それともお金かけたら密閉度がすごいから虫も入れない家を建てられるのか。それとも富豪も夜な夜な家中にブラックキャップ撒き散らしては床の隙間をジョイントコークしているのか。

日の出見に行ったお山の上でセックスされておったが、いくらブランケット引いてても地べたに寝転がるとアリにたかられて大変なんじゃないかと心配になった。あのときのことが特別すぎて忘れられないとは書いてあった一方、その後数日間髪からアリが出てきてうんざりする描写はなかったが、「特別=アリがすごい」「忘れられない=いまだに忘れた頃に髪からアリ出てくる」ってことじゃないよね?当方、新橋桜田公園で泥酔して寝ちゃったとき、ほんの数時間でもむちゃくちゃアリにたかられてしんどかったので。それとも泥酔して寝てる人にはアリも遠慮なくたかるけど、セックスしてる人にはさすがのアリも遠慮してたからないのかな??(結局虫の話!!!!!!!!)

 

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"I Hate The Internet" Jarett Kobek

読み終わって同じ作者の別の本も読もうとググったら速攻でこれの邦訳出てるのを見つけてしまった。痛恨。(「くたばれインターネット」くたばれインターネットの通販/ジャレット・コベック/浅倉 卓弥 - 紙の本:honto本の通販ストア」)

いやーーしかしむちゃくちゃ!!面白かった!!2016年に出てるのこれ??もっと早く読みたかった!!!みんな今すぐ本屋行って読んだ方がいいよまじで。

「悪い小説」を自称し、炎上小説と見せかけた現代アメリカ史、現代アメリカ社会、ポップカルチャー、ネットカルチャー、シリコンバレーIT業界を皮肉にディスり散らかしてて読みながらニヤニヤが止まらなかった。プロットの炎上のくだりを書く時はだいぶ冗長なのに、ディスりパートになるといきなり饒舌になってくるのなんなの。読みながら笑った。いやむしろディスりパートがプロット上は蛇足なのか...でも作者のシニカルな顔が思い浮かぶのは絶対後者パートよんでいる時だしな...無茶苦茶おもしろいので今すぐこのページを閉じて本屋に駆け込んでください。インターネット世代の俺たちのための書かよ!!となると思います。

バキバキに冴えているディスりをいくつかご紹介しましょうか。絶対読みたくなるから...

The Internet was a wonderful invention. It was a computer network which people used to remind other people that they were awful pieces of shit. (p.2)

 インターネットは素晴らしい発明であった。それは、コンピューターネットワークで、人々は自分がとんでもないクソ野郎であることを他人に思い出させるために使っていた。

The vast majority of tweets were written by narcissists interested in letting other people know the wide range of their opinions on every possible subject.(p.61)

大多数のツイートは、ありとあらゆることに対する彼らの幅広い意見を他人に知らせることに興味を持っているナルシストによって書かれたものである。

THE FORMALIZED SYSTEMS in which grown men threw around balls were called sports.(p.62)

形式体系に基づき大人がボールを投げ散らかすことがスポーツと呼ばれた。

Wars were giant parties for the ruling elites, who sometimes thought it might be great fun to make the poor kill each other.(p.36)

戦争とは、貧民を戦わせてみたらむっちゃおもしろいかもと思った支配階級のエリートたちのための盛大なパーティーであった。

 

 

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Mona Awad "Bunny"

わたしは女同士のトキシックな結びつきっていうのも確かに存在していると思っている。集団でいるクラスメイトが、会社の先輩が、こっちを見ながらヒソヒソコソコソ話していて、こっちに暗に「わたしの悪口...?」って思わせるような態度や、仲間内でしか分からない隠語を使って他者を疎外するとことか、そうそうこれこれ「女同士の絆」みたいな感じ...と思う。こういうことをするのは女同士だけでもないけどね。人間、群れたら他者を除外しようとするじゃん。女だから、男だから、とかじゃなくて人が寄り集まって他者を排除しようとするときにその場に発生する有害な何か、ってのは絶対にある。この小説「バニー」はその女同士の閉鎖的かつトキシックな関係性を的確に捉えている。

お互いを「バニー」と呼び合う女の子グループ(実家が太えキラキラ女子)のことを馬鹿にしていたサマンサ(貧乏、クソ狭アパートに住んでて隣人は巨漢の変態)だけど、ある日バニーから「ねえ遊びに来ない?」と誘われてバニーたちのワークショップに行ってみると(酒とドラッグで判断力おかしくされて)気がついたらわたしもバニーになっていた!バニーたちは「自分の理想の男の子」を作り出すワークショップをおこなっているんだけど、失敗すると男の子は爆発するし、叫び出すし、完璧な人間じゃないし、なんていうか、ペニスが機能しないし。んで夜な夜なみんなで理想の男の子作り出してはうまくいかないと斧で殺したり、町外れに捨ててきたりしてて....という話。バニーに取り込まれていくサマンサのバニーとの距離感を「悪口みたいなあだなで呼んでる」→「本当の名前で呼ぶようになる」→「バニー!」で表現するのよ。バニーたちの洗脳が解けると「バニー!」→「名前で呼ぶ」→「悪口みたいなあだ名を思い出す」で正気に戻る描写になる。バニー!のフェーズになるとあなたとわたしの区別がなくなってあなたもバニーわたしもバニーってなる。怖すぎるがそういう(トキシックな)人間関係も現実に確かにある。女同士の人間関係と内面化するミソジニーみたいなものを的確に捉えていて恐ろしいくらいだ。たとえばわたしが冒頭でバニーたちのことを「キラキラ女子」と書いたけど、このワードチョイスだって明らかにわたしのなかのある種の女性に対する嫌悪を表しているわけで...こういうちょっとした人の心に巣食う意地の悪い嫌悪感が、バニーたちを見つめるサマンサのコメントのひとつひとつに出ている。面白かったのがバニーたちのファッションで、プレッピーからMod Cloth系、コンバットブーツを履いたパンク系と、意外にも洋服はみんなテイストが違うことで、もしかしてサマンサから見たら全員キラキラ系バニーだけど、他の視点からみれば違うタイプの人たちなのかも...と思わせる。

ふと思ったんだけど、もしかしてこの「バニー」は主人公(サマンサ)が女性との関係を求めるクィアな欲望についての話ともよめないだろうか。女性との関係を希求するアンオープンリーゲイなサマンサは、その関係性の中に入れないがゆえにある種の女性嫌悪を内面化していて、しかしバニーたちに見染められたことで待望の女性との濃厚な(カルト的)結びつきの一部になる。しかし、バニーたちのカルト的結びつきはあくまでも異性愛的嗜好(セックスができるイマジナリーボーイの具体化を目指す)に基づくものだったわけ。初めて自分がイマジナリーボーイ爆誕儀式を主催したサマンサは、自分の欲望を思い描いて!と言われて、完璧なイマジナリーボーイ(マックス)を生み出すんだけど、しかしながらマックスは実はサマンサ自身なのである。サマンサはマックスの言動を予測できる上に二人の言動はシンクロする。サマンサの欲望に基づいてエヴァと付き合い、バニーの繋がりを断つ。つまりマックスは、サマンサのエヴァに対するクィアな欲望が具現化したイマジナリーボーイ。そしてバニーたちへの加虐願望を遂行するイマジナリーボーイ。サマンサとエヴァの関係性については、ふたりでお互いにリードを代わりながら理想の男性ディエゴ(イマジナリー)とのダンスを夢想したりしているし、エヴァはサマンサがバニーカルトから目が覚めるきっかけになったりもしているし...実はこの物語は女性同士のクィアな結びつきへの欲望、異性愛に基づくカワイイ女同士の結びつきへの加虐願望、サマンサの親友エヴァへのクィアな欲望についての話だったんじゃない??そう考えるとむちゃくちゃおもしろい小説なのでは!!!!

 

番外編: 生まれて初めてスタンダップコメディショーにいった話

いってきました!アンクルロジャーことナイジェル・ンのハイヤ⤵︎ワールドツアー!@渋谷プレジャープレジャー

渋谷に行くことじたい5億年ぶりくらいで、人間がぎゅう詰めになっているところにいくのも8億年ぶりくらいだったのでむちゃくちゃ怖かった。(マスクしないでフゥ〜〜って叫んでる人とかたくさんいたのでこれはcovidやばいと思った。今日で曝露してから1週間なのでセーフだったのでしょう。)あと渋谷の構造がだいぶわたしの知っている頃と変わっておりむちゃくちゃ迷ってマークシティから出られなくなって危うくマークシティの亡霊となるところだった。久々のおそとは色々大変なことも多い。

そして、人生初スタンダップむっちゃくちゃおもしろかった!!意外とわかる!英語!!意外と笑える!!ジョーク!!楽しい!!となってこういう感情久々だわ....ってしみじみしたりして忙しかった。感情が。

マレーシア出身でイギリス在住(姉はハーモニカ奏者)のコメディアン Nigel NgはBBCのクッキング動画「チャーハンを作る」を「ハイヤ⤵︎ハイヤ⤵︎」とディスるオレンジ色のポロシャツのアジア系おじさんを演じたYouTubeビデオで一躍ブレイクした。ご存じアンクル・ロジャーのいわゆる中の人です。アンクル・ロジャーはいわゆるアジア系のおじさんのカリカチュアで、間違ったアジアンフードをぶった斬る動画で俄然バズり中。ジェームズ・オリバーは全然ダメだけどゴードン・ラムジーができる男!ちゃんとチャーハン作ってる!って褒めてたらご自宅に招待されて鍋5つもらったそうです。

Nigel Ngのセットは、アジアン・ディアスポラを感じるスタンダップショウだった。「アジア的なるもの」によって会場にいたマレーシア、台湾、中国、日本人(他の国の人もきてたが)に広がる笑いで、「米/アジアンフード/アジアの母親/しつけ/炊飯器/MSG」でつながる「わかる〜!」の笑い。いやあおもしろかったです。

とか思いながらジョエル・キム・ブースターのNetflixスペシャル見たら「僕はアジアンであることとゲイであることのジョークをやってるけどそれに関して白人男性が「全然共感できなくて笑えない」つってたんだよね」と言っていて、共感はたしかに笑いの重要な要素だけど、でも実はそれだけではない「共感」がすべてじゃないんだわ...と思い至ったりしてスタンダップの世界も深い!!!!(でもわたしもたしかに白人男性コミックのマスキュリニティゴリゴリのジョークとかは全然楽しいと思えないところもあるんだよねえ...)

なかなかスタンダップショウを日本で見る機会ってないんだけどまたぜひ行きたい。早く誰か来日してくれ!!!アツコ・オカツカとかニコール・バイヤー、ロビン・トランは絶対見たい。

 

 

4月-5月のわたしだけのブッククラブ

来月から職場の異動や休職などが重なってその分の仕事を引き受けることになり、倍以上忙しくなりそうな気がしているので、一旦店をしめたほうが良い気がしている。本職を優先したいのと、土日にしっかり休みたいし、家でちょっと仕事をすすめておかないとパンクする気がしている。本は頑張って読みたいけど、帰りの電車で眼精疲労がひどすぎて本読む体力もないのよね...

それとそろそろSNSやめたいなみたいな気持ちが起こってきていて、ついついアプリを開いてしまうその時間が勿体無いっていうか...あとSNSで目にするもの全てがなんかちょっと嫌になってきていて、なんていうの、誰かの主張とか、言いたいこととかを目にするのがちょっとしんどくなっている。とはいえ端的にわたしは依存症なので携帯を手に取ったら惰性でアプリを開いてしまうため、いまはオートメーション機能を使ってSNSを開いたら3分でアラームが鳴るようにセットし、ホーム画面にはSNSのアプリを非表示(ていうかホーム画面大改造して6つのアプリしか表示しないようにした)にし、1日15分までの閲覧制限を儲け、通知機能をオフにした集中モードも作った。

そんなわけで、ちょっと忙しくて2月分の更新となってしまったけど、今年に入ってから結構本を読めた月だったのではないかと思います。がしかし数冊は感想を書くことを放棄してしまった。仕事が忙しい!!!泣

 

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ソン・アラム「大邱の夜、ソウルの夜」吉良佳奈江訳

いけすかない女(※褒め言葉です)2人が、どうしても折り合いがつけ難い社会、家族、ソウル、大邱で夜は酒を飲みながら、小さい不幸を重ねながら生活する話で、むちゃくちゃ胸に迫るものがあった。がしかし「お母さんみたいになりたくない!」と自己犠牲が染み付いた母親世代の生き方とは別の、自立していて、自分のやりたいことをやる子供たちであるコンジュもパッコンも、結局は子供を産み、結婚するという道を選択する。その先の生き方は母親と違うかもしれないが、そのせいでパッコンは配偶者との喧嘩が絶えない。この話でそこに落ち着いてしまうのか...やりたいことも夢もなさそうで家族のことばかりの母親に対する憎しみにも似たその感情は、争っても結局この社会では女としてその「母親」の場所に連れ戻されてしまいそうになるからなのかな、とか思った。それでもパッコンとコンジュは結婚して子供を産み、母になりますが...こういうリアリティがむちゃくちゃに効いている、夢物語じゃない、女の話。コンジュの、記者になりたくてネットとにブログ記事を上げて、来訪者やコメントを楽しみにして「ひょっとして自分はいけるんじゃないか」とおもいながら、その実、コネ入社した銀行の広報課で作成した報告書が課長から「小説家になるべき人がここで働いている」と絶賛される程度の才能であることとか、インターネット時代に何かを発信して、何かを成そうとしてしまう(おい、わたしじゃねえか!)その描写が大変辛く、読んでいて身に覚えを感じてたいへんに腹が痛くなりました。我ら皆自分が実は取るに足らない存在であることを受け入れてやってくしかないんじゃよな...(長老)冷静な目線でいけすかない女の過ごしたあの夜やこの夜を描き、またその夜が今の夜にもつながっている。

 

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「そらいろのたね」

先月から姪っ子宛に勝手に絵本を送りつける活動をしている。妹にどう思われてるかは知らないし、そのうち断られるかもしれないけれども、わたしは姪っ子の母親と、姪っ子の未来のために絵本を送り続けようと思っている。

というのも姪っ子の母親であるところのわたしの妹は全く読書をしないのだけど、それ自体どうってことはないのだけど(むしろ本ばっか読んでて、親戚の法事の時にあの黒い小せえバッグに単行本ギュウギュウに入れて持ってって妹に「ねえw法事のどのタイミングでそれ読めるとおもった??www」て呆れられたわたしのほうがどっちかといえばやばめである自覚はある)でも姪っ子には本というものがあって、そこには「今ここ」以上のなにかが広がってて、困った時はもしかしたらそこに答えがあるかもしれないし、答えはなくてもなにかがあるかもしれないし、みたいなことを叔母さんとしては伝えたい。あと純粋に、読書すげえ楽しいよね!みたいなことを伝えたい。いつか姪と本の話をしたい。おばさんの本棚の本をすべてあげたい(物理的に荷が重い)

それで今月はわたしの母がよくよんでくれた記憶のある「そらいろのたね」を送ったんだけど、わたしも改めて読み直して、これは...このあおいろのおうちって....膨らみつづけるエゴのメタファーですか...?男の子のときは、善良なエゴで、そいじゃきつねさんが入ったあと膨張つづけて最後は太陽に当たって霧消してしまうおうちは有害なエゴのメタファーだね....待って...タネから生まれてぐんぐん育つ、家....男根の象徴.....?と解釈しかけたのだけど、これをどのように姪っ子への手紙に書いていいかわからず、無難なことだけ書いた手紙を添えた。姪っ子が気に入ってくれますように。

 

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ブリット・ベネット「ひとりの双子」友廣純訳

人種とは、境界とはという問いを投げかけつつも純粋に読書の楽しさを思い出すような本だった。GWの読書に超勧めたい一冊。人種とは、アイデンティティとは、境界とは、という難しい問いを読者へ投げかけながらも、読んでいる間中、あの「パチンコ」をよんでいるときのようなかんじで、ぐいぐい引き込まれて、半分を過ぎたら「終わっちゃう....」と残念な気持ちになる読書だった。

パッシングだけではなく人種やセクシュアリティの交差点としての人間と、人間関係について描いた作品で、人種/ジェンダー流動性みたいなものを考えさせられた。新田啓子の解説がとりわけ良いので洋書持っていても買う価値あるよ。こういうふうに、解説までよんだら、さらに読みたい本リストに本書に関連する本を追加させるような解説ってむちゃくちゃよいよね。本から本につなげてくれるような解説。(わたしは新田啓子の解説を読んで今年の夏絶対ケイト・ショパンを読むと決めた)

本書は人種問題としてのパッシングを描いていることばかりとりあげられがちだけど、トランジション中のトランスジェンダー男性も主要な登場人物として出てくるので、そういう意味では人種的パッシングに関しても「境界」の問題、そしてさまざまな要素が交差するクロスセクショナルな問題としてやはり著者は捉えているのだと思った。この本のトランスジェンダー描写に関して”passing”というのは違う気はしてて(色々調べてトランスジェンダーのパッシングという問題は当事者においてもさまざまな意見があることがわかったんだけど)、リースの外見が「男に見えるか」という問題に関してほとんど触れられておらず、むしろ胸に巻いた白い布の件は、恋人同士の境界の問題を描こうとしているように思えたのでこの作品ではトランスジェンダーがシスジェンダーと社会によって見做されるか否か(パッシングするかどうか)を描こうとしているわけではなくて、あくまで著者はジェンダーや人種の境界の流動性の問題として捉えて描こうとしたのではないかと思っている。

 

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ダイアン・クック「人類対自然」壁谷さくら訳

むちゃくちゃおもしろい短編集だった。これはぜひよんでもらいたい。人間の利己的で、自らを客観視できない、底意地の悪さや暴力性、加害性みたいなものを的確に捉えて、ものすごくコミカルに描いているので、あんまり悲惨な気持ちにはならずに、なぜか楽しいような気持ちになる、不思議な短編集でもある。どの話もあらすじとか知らずに実際に本を開いて、この面白さと出会ってほしいので無駄なこと(あらすじとか)は書きませんがこれは超おすすめです。

 

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「ニッケルボーイズ」コルソン・ホワイトヘッド 藤井光訳

買ってからずーーーっといままで積んでて、手にとってはいまじゃない、いまじゃないでようやく読んだ...高まりつつある公民権運動と、キング牧師の演説を心の信念として正しくあろうとする少年エルウッドに付与された善性や、まじめさとか、そういうものはともすれば感傷的になりがちだけど、この小説ではそこをうまく回避しているコルソン・ホワイトヘッドやっぱすごい。繰り返される理念としての「生き延びるだけじゃだめなんだ、ちゃんと生きなきゃだめなんだ」というエルウッドの信念を正面から描きつつも、その真摯な描き方が(わりとありがちな)安っぽい物語にはなっていないんだよね...いやあ....あとわたしはさ〜グリフのさあ〜あそこで通勤電車で思わずすごい泣いてしまった...信念だってプライドだってそんなもんじゃなくてただただ2+1の問題だったっていう....ねーーーーなんかもうそういうどうしようもないことで道が狂っちゃうみたいな(それはエルウッドもそうだけど)そしてそれが社会構造的な問題でもあるという、もうすごい良い小説でした....

 

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「現代手芸考」上羽陽子・山崎明子編

水引をやりはじめて、お店もはじめて、わたしがやっているこれはいったいなんだろうという気持ちがずっとある。誰かに「水引やってるんですね、お店やってるんですね」なんて言われたら「ハハハ!!!暇を持て余したOLのやりそうなことですよね〜!!!ハッハッハッ〜!!!」と自虐で笑い話しようと思っているし、わたしが作るものそのものじたいの価値についていまだに自信が持てないでいる。

わたしがやっていることは手芸で、何かを無心に作っている時の心の平穏を求めて水引をあんでいるけど、そのなにかをつくるという行為自体、手芸自体には何があるのかを求めてこの本を読んだ。

すっごい面白いんだけど手芸とはなんぞやという謎は各論考をよんでますます深まってしまったし(研究者もまだつかみあぐねている手芸がある様子に感じた)なんだこの、根底に存在して、ちょこちょこ顔を覗かせる「手芸なんて....」みたいな共通認識....やっぱり美術を勉強して、ものづくりを専門にする人々(研究もそうだし、物作り自体もそう)には、手芸って何段階もいろんな意味で下なの...?とも思ってしまった。実際問題として「芸術>(芸術の純血を守るための防波堤としての)工芸>>>(工芸が格を保つために格下を作る)手芸」という図式があることは本書でも触れられており、また最初の方に収録されている論考にも「職人的ではない技術」「(手芸的な創作物をみて)ガッカリ」「質が求められない」「文脈から切り離されている」など、やっぱ手芸って格下なのかしらと思わされたりもするが、そこから中〜後半の分類に関する論考などへ、広がっていってとてもおもしろかった。あといろんなものをちょこっと作ってほかのところにいく手芸者はものづくりの真髄には触れられないみたいなこと書いてあったがそういうところはけっこうケッと思ってしまった。そういうちょこっと手芸をやってくれる人たちで成り立っている手芸産業的なものもあると思うけどな。

 

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"GENDER QUEER" MAIA KOBABE

全米で最も禁書になったグラフィックノベルみたいな記事になっていた一冊。

ジェンダーセクシュアリティ、セクシュアルオリエンテーションをめぐる「わたしはだれ?」の記録。男でも女でもゲイでもバイでもなくてわたしはわたしにたどり着くための道のりについて。女性器を持つことによって経験する痛みや違和も描かれる。禁書にするどころかむちゃくちゃ読まれるべき一冊と思いました。わたしがよんだ時にはkindle unlimitedのラインナップにも入っているようだったので是非。

3月のわたしだけのブッククラブ

流行病がそろそろ身近に迫ってきているのを感じる1ヶ月だった。会社でちらほら出社できない人が増えてきたりして、その分の仕事を請負いながらも、いつ自分の番が回ってくるのか戦々恐々としながら過ごす日々だった。わたしがこの流行病にかかりたくないのは、もちろんつらい思いをしたくないからだし、後遺症なども怖いと聞くし、それにまして何より、今かかったらここ2年我慢してきた意味がなくなるから、もはや意地みたいなところもある。わたしの我慢を無駄にさせてたまるか、みたいなところで最近はひたすら家に引きこもっている。(残念ながら会社はほぼリモートが認められていないので出社はしているけど...)

knotting hillに関しては、先月後半と今月前半の出荷ラッシュでだいぶ心と体がしんどくなってしまったので、品出しのペースをゆるやかにし、1週間で作る分を最低限にしたことでだいぶペースがつかめてきたこともあり、3月後半は本を読むなどする余裕がだいぶでてきた。無理なく続けられる範囲でこれからもやっていこうと思う。みんながほしいと思っている間にたくさんつくらなくてはと、どうしても焦ってしまうところもあって、たとえばこれを書いている2022年4月現在、売り上げは前月の月初の勢いはまったくなかったりもする。気持ちとしてはだいぶ余裕があるけど、前月の予定でそろえてしまった材料をきちんと売り切れるかも不安になったりもして、やはり難しい。アクセサリーとかを作れば良いのかもしれないけど、わたしはそこらへんのセンスがまったくないのと、やっぱりしおりをつくりたい(しかもやっぱり羽根がかわいいと思う)ので、バリエーションがない。変なとこ昔気質の頑固親父なもので...細々とやっていきます。とりあえず売り上げの波がなくなったからといって、な〜んだこんなもんかあ、そっかあ、と店をしめてやめてしまうことだけはしないように自分に言い聞かせている。(わたしはどういうわけか衝動的にもういいや、としてしまいがちな性質があるので、ちょっとは実にならないと思えても続けることをやってみるべきだと思う)

 

てなわけで、2022年になってひさびさに複数冊の本を読んだ1ヶ月だった。

 

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キム・ハナ「話すことを話す」清水知佐子 訳
読み終わってからも悪夢を見るような強烈な小説集を読んでしまったため、本の二日酔いのような感覚がずっと抜けずにいたのだけれど、この本は二日酔いをさますサクロンのような作用があった。(ガチの酒飲み二日酔い勢なので、二日酔い対策の清涼剤がサクロンというしゃれてないかんじですまん)
「女ふたり、暮らしています」の著者 キム・ハナが「話をすること」についてつづったエッセイ集なのだけれども、文章の端々から著者の人柄がにじみだしてくるようで、とてもさわやかで暖かい一冊だった。このように話すことに意識的なキム・ハナのポッドキャストを、わたしは(聞くことはできても)わからないのが大変に悔しい気持ちになる。実際にポッドキャストを聞いてみれば、その落ち着いた声や、心地よいように構成された話の内容などが、より実体験としてわかるだろうと思うから。
漫然と口を開いて話すのではなく「話すことについて話す」では、人前ではなす方法、対話をするために聞く方法、酒のつまみになる対話、マイノリティの声を届ける方法としての話、など話をするといってもたくさんの目的があり、それぞれにおいて大切なものがあるということに気づかされる。
ところで、わたしが常々読みたいと思っている「とりあえず、酒」や「女の人生はピッチにある」のキム・ホンビがこのエッセイにも登場しており、またも酒エピソードを披露していた。残念ながらわたしは韓国語がわからないので、その出演回のポッドキャストを聞いて理解することができないのだけど(再生はした!!わからなかったけど、聞くだけきいた!悔しいから!90分!)このエッセイを読んでさらに「とにかく、酒」を読みたくなった。もう完全に、ウチら(酒類人類)のバイブスをむちゃくちゃ感じるよ...ホンビさん...今一番、その飲酒エピソードを聞きたい&読みたい作家、ホンビさん...「とにかく、酒」邦訳でないだろうか...(そのためにも、この記事をよんだ酒好きのみなさんは「女の答えはピッチにある」を買ってくださいね)ポッドキャストのこの飲酒回は、言葉がわからないながらもとくとくとソジュがつがれる音と、かちんとグラスの当たる音で、大変にのどが渇いたし、あ〜友達と杯交わしたいな〜!!!となった。現在、ハングルでいいので、どこかにポッドキャストの書き起こしがでていないかと探しており、見つけ次第、どうにかして読んでやろうと思っている。
そして、キム・ハナのポッドキャストを(言葉が話からないながら)聞いていて思ったのは、エッセイでもかかれていたけれどのその声の魅力である。
わたしは自粛生活2年目にしてそろそろ家から出ず人の声を聞かない生活にやや寂しさを感じ、ポッドキャストを聞き始めた。
日本語の番組はあまり魅力を感じることができなかったので、主にアメリカのコメディアンのポッドキャスト(Nicole Byer "Why don't you date me?", Atsuko Okatsuka "Let's go Atsuko!"最近では渡辺直美の"Naomi Takes America")を聞いているのだけど、一日に2エピソードくらい聞くと耳がワンワンしてきてしまって、逆に集中できなくなってしまうのだけど、キム・ハナの声は、ずーーーっと流していられる、流しながら落ち着いて作業をしたり、家事をしたりするのに本当にぴったりの声なのだ。キム・ホンビゲスト回だって、飲酒しながら話をしているのに、話をしている人みなさんの声が耳に心地良すぎた。酒の量に比例して声がでかくなる私、このしゃべり方を習得したいです。実際にその声を耳にしてみてわかる、話し方の重要さを感じたりもしたのだった。

 

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台湾文学ブックカフェ<1>女性作家集 蝶のしるし
現代台湾文学を紹介する小説シリーズ(全3巻)の1巻目の女性作家特集。これは超おもしろい短編集で、いますぐ書店で買って読んでほしい。久々に良質なアンソロジーを読んだという満足感でいっぱいになった。超おすすめ。現代作家を紹介するシリーズということで、ここに収録された作品がはじめての邦訳小説だったりする作家もいて、たいへんホットなのである。
とくにわたしが好きだったのは、江鵝「コーンスープ」ときは2020年3月、世界で新型コロナウイルスによる感染症が猛威をふるいだした頃、あるカップルが破局を迎える話なんだけど。マスクをきっかけにして、カップルの「あっわたしは(こんなにも求めている)マスクのためにもこの人と結婚しようと思わないほどこの人のこと好きじゃないわ」と「じぶんのぶんのマスクしかないからあげなかったことで、自分の愛が足りないと思われたのだろうか」という男女のすれ違う気持ちをコミカルに描いてみせて、大変おもしろかった。この作品は、感染症対策の基本である(そして2020年3月にはどこの国でも品薄になっていたであろう)マスクに自己への愛と恋人への愛を計らせ、そしてこの未知の感染症の世の中において、すでに人間の幸福と慰めの基準は誰かひとりの人間を抱きしめることではなく、予防効果の高いマスクをつけて、命が保障されていることを感じることに大きく変化してしまったことを描き出す。そして張さんが白さんとの別れをふりかえったのが2021年春のことだった。この小説の初出は2020年5月とあり、その時点で想像上の未来から、別れを振り返って描いてみせたわけだけれど、2022年春の今、張さんは今頃N95とかのマスクをつけて、相変わらず自分が健康であることに最大の喜びを感じて生きているのだろうか、と思いを馳せてしまう。現代短編集のよいところというか、今起きているこの出来事をどのように世界の作家は物語にしているかということを、あまりタイムラグなく読ませていただけるのは本当にありがたいと感じたりした。
それとラムル・パカウヤンの「私のvuvu」もねえ、すごかった。幼稚園にかよう少女が、台湾原住民族の祖母とすごす(ロストイン・トランスレーションのような)うちに、自らのアイデンティティに近づいていく話で、解説の台湾の多文化環境に関する記述もむちゃくちゃおもしろかった(原住民族のなかでもパイワン族は男女の区別をせず、女子も主体性をもつように育てられるけど、タイヤル族は男性中心社会であるとか)んだけど、小説の中に入り乱れる言語の多様性似も驚かされる。
vuvuが語った民話もむちゃくちゃよくて。読んでいるときは"Bad girls go to everywhere"の教訓話化と思ってちょっともやっとしてしまった(何度でも言うが最近のフェミニズムの文脈でよく引用されてる悪い女の子はどこにでもいけるというこの慣用句が大嫌いである。そもそもGood Girl/Bad Girlという基準からして従来の価値感にのっとったものでしかないし、なにゆえよい女の子が批判されなきゃいけないのかまじでうるせえなとなってしまうよね。悪くあるも良くあるも、自分の選択だったら外野からとやかく言われる必要ないでしょ。よい子だってどこにでもいけますし。というのもわたしはどうやってもあこがれの悪い女の子になる度胸がなく、ひたすら良い女の子でいることしか選択肢にないから、ただのやっかみとも言えるわけだけど。) でも冷静にかんがえたらそういう民話じゃないことに気づいて。これは、自分のほしいものがあるなら、自分の頭で考えて行動しなさいという教訓なんだよね。醜いババウニは自分がほしい美しさを得るために、自分の頭で必要なものを考えたから、それを手に入れたけど、美しいセレピはなにも考えずに言われるがまま従っただけだったから、ほしいものを手に入れることができなかったってこと。そう考えると、ババウニとセレピの生まれ持った「美しさ」という描写には自分の頭で思考するということの前には、なんの価値もないと解釈することもできて、大変におもしろかったです。
収録されている作品、どれもすごく良くて、上述した2つが特に私は好きだったけれど「静まれ、肥満」も「オレンジ」もよかったし、「蝶のしるし」も...って本当にテイストの異なる8編で本当におもしろかった。台湾の女性作家の作品もっと読みたくなったよね。読み終わったら「よし!この作家だけの邦訳作品はないか!」とさがしては「ないじゃん!!!!!!ちょっと!!!!!!もっと読みたいんですけど!!!」となってしまったので、作品社は責任をもって各作家の著作の邦訳を早急に出していただきたいです。どうかなにとぞ....

 

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ミン・ジン・リー「パチンコ」池田真紀子訳
ついにAppleTVでドラマが配信された「パチンコ」ですけど、わたしはE1を早速みて、はたと大昔に読んだから小説の内容ほぼ覚えてないんじゃないかということに気づいてしまい、読み直すには英語じゃ時間かかりすぎるかなということで、今回は邦訳で読みました。英語では2回ほど読んでいたんだけど、やっぱり読者を物語に引き込んで読ませるこの物語のナラティブは巧みだなあと驚嘆した。3回目でもむちゃくちゃ熱中して読んでしまった。
日本語で読んだからか、3回目だからかはわからないけど、この物語について少し批評的な解釈もできる余裕もできたので、ここに少しまとめておこうと思う。
再読して驚いたのが、この小説において「死の場面」を描くことをリーは徹底して避けており、例えばその信仰によって警察に捕まり、拷問やひどい扱いを受けて死の寸前に釈放されて家にたどり着いたイサクについても、その死の場面をドラマチック描くこともできただろうに、死ぬ場面を描かないし、ノアにいたってはハンスの口からその死が伝えられるのみだし。そのほかの登場人物(エイズで死の間際にあると描かれる花ですら)も、その死は「会ったのはこれが最後だった」とか文中にそれとなく亡くなったことが示されるだけなのである。これは作品中において、登場人物の「いまここにある存在」としての生を際だたせていたように思う。今ここにいる人物を描写してきたところで、最後にもう今はもうここにいない、ノアの存在がここにあったこと、そしてノアの人生が他人の人生に影響を与えていたこと、それを墓の管理人という他人の口からソンジャが聞くことで、ソンジャが知り得なかった息子の生を、そして(物語に描写されなかったことによって)読者が知り得なかった登場人物たちの人生にまでも、読者の想像を広げていくような効果があったように思う。わたしは、こういう「この本を教えてくれたんですよ」みたいなエピソードになぜか大変に弱いので、通勤電車で大号泣しました...

それと登場する女性の登場人物の造形がやや聖女か娼婦のどちらかにかたよりすぎではないかとちょっと思いました。女は苦労するもんだから、といわれ続けた時代に生きた女たちが描かれるわけだからある程度は仕方ないのかもしれないけど、なんかちょっと気になった。基本的に登場人物全員に対して、断罪せず平等で温かい眼差しで描いた物語だったとおもうんだけど(ハンスですら、別に悪いようには描かれてない)だとすれば、もうすこし聖女/娼婦に傾き切らない女性がいてもよかったのではと思ったりもした。唯一、このどちらにも属さないのが韓国系アメリカ人のフィービーで、彼女だけは颯爽とアメリカに帰っていきましたねえ...

あと英語版にはない日本語版解説、もうちょっと別のテーマで、在日コリアンの方々が受ける差別や、日本の社会構造の問題点を実際的に解説できる方の解説とかにすればよかったのではと思った。この作品が日本の朝鮮半島統治や、戦時中に行った行為、その後の差別を糾弾するトーンで描かれていないことは確かで、それが(Amazonとかでのレビューを見る限り)日本でもこの本が高く評価されている要因ではあるとは思うが、わざわざそこを解説で取り上げるよりも、せっかくこのような内容の本を手に取った読者に現実に存在する差別を受けて苦しむ存在である在日コリアンの存在を現実として解説し、また在日コリアン文学について、「パチンコ」を手に取った日本の読者を誘導していくような文章が読みたかった、と思ってしまった。なんたって「日本版解説」なのだから。先月このブログでも取り上げた李良枝の作品なんかは、絶対に「パチンコ」の読者におすすめしたいもん。ノアが、モザズが、ソロモンが、裕美が感じたその感情が生々しいほど描かれているので....「私たちにできるのは、過去を知り、現在を誠実に生きることだけだ」という著者の言葉が解説に引用されていたけど、そうなのだとすれば日本の読者は在日コリアンの文学を手に取ることもその一歩になるだろうと思う。

2月のわたしだけのブッククラブ

相変わらずあまり本も読まずに水引をやっていた。10年にいちどレベルの頭痛が数日続いて、朦朧としながらヨタヨタ自分の家の階段を降りていたところ、階段から落ちたりした。これが前厄かーー!死んだな!!と階段の下で寝転んだまま(アッ会社のロッカー片付けてない...)と思った。階段から落ちたのは人生初の経験で、あれは大変に恐ろしい、あっと思った瞬間には落ちているのだと理解した。そして会社のロッカーはほんとうに早く片付けないとわたしは死んでなお恥をかくことになります。

わたしの店knotting hillはみなさまから可愛がっていただいて、作っている羽根のしおりが届いたとSNSなどにあげていただくのを見るたびにとても嬉しい。すこし検索した限りでは羽根しおりを作っているのは世界でわたしだけなんじゃないかと思っていて、ちょっとエヘンという気持ちになったりしている。もうすこし実績(なんの?)を積んだらどこかお店に置いていただいたりできないかしらなんて考えて、しおりの台紙(いまは葉書サイズの紙を買ってきて自分で店名を書いている)ももしかしてオシャレな箔押しのやつ発注しちゃったりできないかな、なんて、色々と考えているけど、とにかく夜を徹して水引やってて体壊してはしょうがないのでほどほどにするか、早く会社のロッカーを片付けるかしたいと思う。

2月半ばにブースター接種を受けて、案の定寝込んだのだけど寝込みながらもネットを見ていたら美しい京水引のお店を見つけてしまい、本物の蚕の糸を使ったマーブル染の水引を購入した。この水引自体は結構硬いので編むのが大変なのだけどこれがたいへんに美しくて、やっぱ素材の良さってあるんだわね。これを京水引シリーズとして店に出している。色によって売れ方にも当然ながら差があり、わたしの予想と違うので、そういうのも新鮮な驚きがある。たとえばバッドフェミニストカラーはわたしとしては超超超可愛い自信作だったけど、あんまり初動で売れ行きが出ず、そのあとご購入いただいた方のSNS投稿で一気に売れたりした。(SNS投稿まじでありがたいです)

それとは別に、店の商品の価格設定について、薄利でやっていた(自分の時給は計算に入れていなかった)のだけれど、やはりそうするとある程度の出荷があると製作&出荷でだいぶしんどくなってきてしまい、友達からのアドバイスもあって商品の価格を改定するなどもした。ハンドメイドの道、なかなか険しい。

それでも、わたしは自分の店のしおりを自分で使っているのだけど、やっぱり羽根しおりはすっごい可愛いくて、本を読みながらしおりをチラチラみては「うは〜超かわいい〜」ってニヤニヤしたりしている。しおりなんか、レシートでも紙切れでもなんでも代用できるけど、しおりを買ってくださった方の読書に楽しさが、本を手に取るうきうきしたモチベーションが少し追加されたらいいなと思っている。

わたしも3月からはちゃんと本を読んでいきたい。

 

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李良枝「ナビ・タリョン/由熙」

日本においてマジョリティであるわたしがこの本について何を言えるだろうか、と立ち止まって考えてしまう。わたしは、彼女たちの苦しみをどこまで知っていただろうか。

いまだにわたしはこの本について全然消化できていなくて、だからあまり書くことができないのだけど、とにかく小説というものの持つ力というものを再認識させられるような、圧倒的な重力を持った作品集であった。まじで、小説が持っている最大限の力でばーーーんと頬を叩かれるような衝撃だった。

在日であることを、水につかった靴がガボガボいう音に「カエルがいる」と怯える感覚や、韓日の間に存在することとそのアイデンティティを「言葉の杖」に例える。そして小説を通してこの世から去っていく男兄弟たちは一体何を象徴するのか。(これらについてずっと考えて、掴めそうで掴めない日々を過ごしている)そして自らのアイデンティティの暴露に怯えるその気持ちを、わたしは小説を通してしか経験することができないけれども、この本の持つ力に引き摺り回されるような体験だった。

在日であること、それと同時に自らのルーツである家族の物語でもあって、こちらにわたしは大変動揺してしまい、この本をよんでいる間毎晩家族の悪夢を見続けてうなされていた。すごい本...いまだにわたしはこの本のことを頭の中で考えずにはいられない。はーーすごい本をよんでしまった...

1月のわたしだけのブッククラブ(改めノッティングクラブ)

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新年あけまして...わたくし新年は31日夜に泥酔して1日に起きたら偏頭痛の予兆閃輝暗点がおきまして、急いで餅食べて薬飲んで寝てるみたいな新年でした。前厄。もはやこびりついたように疲れも取れないし、家族関係のトラブルもあってもう前厄がぐんぐんに攻めてきている。もっとゆっくりやってくれたっていいんだぜ前厄さんよォ....

そして今月わたしは本をほとんど読まなかった。なぜかと言うと、新年だし新しいことでもいっちょやりますかと、むかしパラコード編みにハマった時に母が「あんた水引も向いてるんじゃない?」と言ってたのを思い出したのと、インスタの広告で1896回水引オンライン講座の広告がでてきたのとで興味が出て、はじめてしまった水引にドハマりして、ひたすら編んでた...水引を...編み続けて気づくと朝の3:00!早く寝ようよと呆れ返る猫!凝り固まる肩!深夜水引の在庫がなくなって眠れなくなるほど焦る心!近所の手芸店にかけこんで水引爆買い2日連続!我ながらただの趣味なのに追い込みすぎである。

ハマらないものに飽きるのは早いけどハマると生活がままならないほどハマるので、現在も生活がままならなくなっている。完全に中毒者。でもただひたすら無心で編んでると、心が落ち着くんだよね...普段一切止まることのない頭の中の思考がふと止まって糸だけいじってると、肩は凝るが心は平穏になる。ヨガでいう今に存在するというかんじ、アレがこれなんだなとおもう。今に存在するなんて知ったこっちゃないので、わたしはヨガをやりながらひたすら終わったら何食べるか考えてるけど、水引やってるときはシャヴァーサナの境地に行ける。

どうやら水引が性に合うみたいで、だいたいの手芸の解説書を読んでもなにもひとつも理解できない(例:編み物)このわたしが水引のことだけは感覚でわかる。あーはいはいここ通したらここでこういう風になるからこうなのね、はいはいわかるわかるってなぜかむちゃくちゃ理解してしまう...向いてるんだとおもいます...この超絶地味な趣味、水引が...

というわけで1/6から始めた水引なんですけど、なんと、作ったものの在庫余剰に困って店を始めるまでになりました。当方アクセサリーとかおしゃれに疎いもので、水引でつくったしおりを売っている。とにかくなんでもしおりにしている。(本に挟まれたいという潜在意識の表れかな??)在庫を出すと買ってくれるお客様がおり、売れるたびに(親、親戚にTwitter垢バレしてて順繰りに不憫に思った親親戚が買ってくれてるのでは...?)と思ってしまうのだけど(そういう意味ではお客様はわたしのイマジナリー親戚です!感謝しています!)わたしの作った水引しおりが買ってくださった方の読書のおともになっていたらすごく嬉しいなと思う。わたしは今月本をほぼよんでないけど、わたしが編んだしおりが挟まれた本の数を読んだ冊数にカウントしたっていいんじゃないか。

話は違うが、わたしのお店の名前はknotting hillで、我ながらちょっとうまいこと名付けたのではないかと思っている。最近はこういう羽根のしおりをたくさん作っていて、これは色合わせによって糸の美しさとか、構造の面白さがすごくわかって編んでいて楽しいので機械のように量産している。

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わたしのお店はこちら:knottinghill - BOOTH

 

手を動かしながら最近はもっぱらわたしの学生時代の洋楽ヒットチャートを流してるんだけど(ようやくわかった、懐メロしか聞かなくなってしまう人の気持ち...幸せだったころに戻れるんだね....)ノスタルジーに浸ってばっかなのもどうかということで、オーディオブックのサブスクリプションDiscover the Best eBooks, Audiobooks, Magazines, Sheet Music, and More | Scribdをはじめてみた。(やっと本の話です!)

これが結構よくて、月1000円で(30日のフリートライアルがあるよ)オーディオブック聴き放題。ラインナップはというと、ないもの(オーシャン・ヴォン、トリー・ピーターズはなかった)はないけど、新刊でもあるもの(Hanya Yanagiharaの新刊とか)はある。ポッドキャストのおしゃべりは無限にきいていると2時間くらいで耳がぐわんぐわんしてくるけど、オーディオブックのナレーションなら落ち着いて聴くことができる。(ちなみにポッドキャスト、毎週聴いているのはNicole ByerのWhy don't you date me?軽くて面白いのでおすすめ)そういうわけで1月の後半にScribdをはじめて、数冊洋書を聞いている。サブスクだと「これ買ったから合わないけどもったいないし最後まで読まなくては...」というのがないのでよい。良いけどもいやいやながら無理矢理読むことで上昇する英語スキルがたしかにあるともわたしは思っているのでそのような機会は失われている。

最近きいたのはJessamine Chan"School for good mothers"とか。これはある日子供を一瞬だけ...と家に置いて外出してしまった母親フリーダは、行政機関から子供を預かっていると連絡を受ける。母親失格となったフリーダはこの親にふさわしいと証明するために24時間監視や子供との接し方の観察を受けることになり...という話しなんだけどソーシャルワーカーの前で子供との接し方を見られてるときに子供がギャンギャン騒ぎ出したあたりでわたしがメンタルブレイクダウンしそうになって途中で挫折。ミドルクラスの母親としての世間からの期待、移民2世としての両親からの期待とその期待に添えないことに対する後ろめたさ、良き親であろうとする自分への期待と、そのすべてがうまくいかず、仕事すらギリギリの生活...むちゃくちゃ気が落ち込みました...

あといま聞いているのはGeorge Matthew Johnsonの"All boys aren't blue"こちらの感想は来月かけたらいいな。

そんなわけで!来月はちゃんと読んだ本の話をできるように!!水引と本と映画を両立して、追い詰めるように水引を結ばないようにしないと...(水引を手に取りながら)

 

12月のわたしだけのブッククラブ

2021年がおわってしまった。特になにかを成したわけでもなくって、外に出れるわけでもなく、ひたすら家で一人遊びをしているような1年であった。消化試合だった気がしなくもないけど、そんななか1ヶ月で読んだ本をまとめてみたりもしたりしている。

今年は我が家に襲いくる自然の脅威との戦いの1年でもあった。春には伸び放題の雑草!涼しいうちに草むしりしたのに梅雨が明けたら何事もなかったように茂っている雑草!そして暖かくなれば自然豊かな周囲から我が家に忍び寄る黒い侵入者!(絶叫)裏の家の庭木が動いているように見えるほど花に群がるでかいハチの集団!!(絶叫)

2021年夏は虫ノイローゼになって5キロも痩せたのだった。今までよりなにしたときよりダイエット成功してしまったがな。不本意

そんなわけで、こんな調子で、2022年も本をよんで映画をみたりしてマイペースにやっていきたいねえ、と思っております。

 

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「非色」有吉佐和子

戦後から日本社会っていっこも変わってないんじゃん...と読みながら痛感した。本文の文脈とはあまり関係ないけど「まだ私たちの考えの中には古風な適齢期という観念が生きていたから」とかいてあって、その観念は今もあるしな...とヘラヘラしてしまった。まじであんま進歩してないんじゃないの...

第二次世界大戦後、進駐軍であるアメリカの兵隊と結婚した日本人女性 笑子は、彼との間に子を儲け、そしてアメリカに移住する。そこで笑子が経験するのはハーレムでの貧困と、人種差別なのだった。

最近手に取る本にはよく戦時中に進駐軍と結婚したりしなかったりで子ができて、その母親や子供たちの話が多くて、無意識なのだけどこの本もそういった一冊なのだった。

笑子が経験するのは、国が異なれど、日本においても、アメリカに於いても肌の色によって差別されるという人種差別だ。笑子が結婚したのはアフリカ系アメリカ人であり、渡米後はハーレムに住むこととなる。

戦後、戦争花嫁となっただいぶいけすかない風のある日本人女性が反感と根性で生き抜く物語としては大変面白かったのだけど、読んでいるこちらがドギマギしてしまうのは、戦後と現代における差別に対する価値観の違いだけではないだろうと思う。あまりにも明確に「黒い」と言ってしまうその感覚の違いだけではなく、それはこの物語を語る当事者である笑子が、実は差別を主体的に遂行する者でもあるからではないか。

笑子が目の当たりにする差別は、日本においては彼女自身が黒人との間に子供をもうけたことによる差別であり、彼女自身というよりは、彼女の向こう側にある黒人男性、ひいては混血である子供に対して向けられる視線を差別として描写する。アメリカにおいては、日本人であるがゆえに受ける差別ではなく、アメリカ社会における黒人差別、イタリア系差別、そして最下層と記されるプエルトリコ系に対する差別が語られるが、そのどれも、日本人である笑子や船旅仲間の女性たちが、彼女たちの属性ではなく、その向こう側にいる配偶者としての男性が受ける差別を代表する存在なのである。だから笑子は「プエルトリコと一緒にされた」といって怒り、自らも差別をする者として立ち現れる。実はアメリカ社会における差別を目の当たりにしながらも、自らも差別をする側となってしまう、そんな存在を描いた作品だったのだと思う。

この小説の歪さは、不思議なまでに黄色人種である日本人たちのその色が、見えない/描かれないことである。白人ですら差別のピラミッド構造の中にあると描写されるアメリカの中で、この作品において唯一(自らの人種を理由として)差別を受けないのは日本人だけである。その歪さが、日本人のもつ、戦後から今まで変わらないように思える差別意識を描き出すことに成功しているのではないだろうか。自らの色に盲目で、他者を差別する存在としての日本人である。思えば、笑子が日本にいる時から、笑子とメアリイの暮らす日本社会における差別が描かれ、日本を出てからは笑子や船で一緒になった日本人女性たちが率先してその差別の主体的な役割を担っているように思える。

フィクションとして大変おもしろかったけれども、この本を読んで大変に気まずい思いになるわたしの心にも、その日本人に深く根付く差別意識はあるのだろう。

 

 

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「海をあげる」上間陽子

食べるということが、生きることにダイレクトにつながるということを、わたしは自分の母の闘病を見守る中で実感として知った。ひとは口をあけてものを食べれなくなったら、それが死を意味する。

それでは、食べ物が、水が、日々生きるために口に入れるものが基地から流された汚染物質で汚染されているとしたら。沖縄での日常は今なお戦争と地続きであり、本土や日本が沖縄にm押し付けてきたものによって、そこに住む人間の命のみならず自然もが脅かされている。

ここにわたしが何を知ったように書いても、遠く離れた場所で、たかだか本一冊を読んだだけで、遠く離れたところから発する言葉はすべて「本土の東京人の言い訳」にすぎない。無知ゆえにわたしも沖縄を都合よく消費する本土の人間のひとりだ。ただただこの本に書かれた怒り、絶望、苦しみを、抱えるしかない。

本書の最後でわたしに、抱え切れないと著者からわたされた海は、わたしだけでなく、本土でこの本を読む人全員にわたされる、赤く染まった海だ。わたしはその海をどうしよう。これもまた自らの無知ゆえに、途方に暮れている。ただ無言で、その海を受け取ることしかできない。

本土に住むひと全員が、必読の本だ。本土にいて、安心して暮らすわたしは沖縄の人々を抑圧し、苦しめているのだと理解しなければならない。

 

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ヘルシンキ 生活の練習」朴沙羅

ミン・ジンリーの「パチンコ」と関連して朴沙羅の「チベの歴史」を読んで結構ヘビーだったけどそれと同じくらい大変に面白かったのを覚えていて、本屋で見かけてこの新刊を手に取った。

社会学者である朴沙羅が、自ら設定したタイムリミット最後の最後でヘルシンキで働くことになった、その移住体験を記したものだ。ヘルシンキでの仕事がはじまったのは2020年2月。つまりいまだにわたしたちの生活の中心にある新型コロナウイルス感染症が世界に広まりつつあるさなかでの移住だったということだ。

それで、この本がどんな本だったかといえば、むっちゃくちゃおもしろかった。年末進行で疲れ切ってた通勤の最中、読みながらニヤニヤ笑いが止まらなくて「心底今この本をよんでいてよかった」「マスクしてるから電車で盛大にニヤニヤしてもバレないしよかった」と思った。朴沙羅の軽妙な大阪弁のツッコミ、最高か。

二〇一八年に初めてフィンランドへ行って以来、私はいわゆる「北欧推し」のような言説も、その「逆張り」も、好ましいとは思えない。(中略)相手は、こちらと比較して優れているわけでも劣っているわけでもなく、単にちがうだけではないか。その違いは、ときに腹立たしく、ときに面白いものではないか。(p.013)

冒頭から、これから本書を読み進める読者に対してこのようにハッキリ釘がさされる。ここから提示されるであろうフィンランドでの暮らしは向こうがいいわけでも、こっちが悪いわけでもなく、ただ違うものだ、その違いを面白いと思って読むように、と。

なんてことだろう。その次の章からはじまるフィンランドでの暮らしを「日本に比べていいなあ」と思えないなんて...と思いながら読み進めて、やっぱしフィンランドいいじゃん〜と思ってしまった部分もあったけど、「北欧は先進的である」となんとなくおもいがちなわたしには、第5章で詳しく解説されるフィンランドの女性の子育て事情なんかは「えっなんか...どっかで聞いたことある話...」というかんじであったし、知らないことがたくさんある...(のに先入観で憧れがち...反省...)となった。

(...)なぜ自分たちはそこまで不幸だと思ってしまうのかということと、その不幸だと思ってしまう考え方や表現の仕方の歴史的経緯も、検討したら面白いのではないだろうか。(中略)そして、お互いを「迷惑だ」と憎み合い、感情と物語にだけ動かされ、スキルを見るべき時に人格を見つめ、お互いを怖がってしまうことは、私たちをより不幸にこそすれ、幸福にはしないだろう。(p.273)

 

本書を通じて読者は「違いを面白がる」という試練に向き合うことになる。比較しない、それは常日頃からあらゆることの違いを認識し、その優劣を決めては自らの身を嘆くわたしにとって、大変に難しいことであるように思えた。しかし読了後、「生活の練習」ってこういうことだったのかと思う。優劣をつけず、違いを面白がる、違うから良い/悪いではなく、違うね、面白いねと思えるようになること。そして今ここにある自分が不幸なのであれば、それはとこかここではない場所との比較で不幸なのではなくて、今ここにいる"ここ"に問題があるのだと認識すること。そしていまここの問題に参与していくこと。この本を読みながら違いを面白がる、違いをちがいとだけ認識するようになることで、読者にとってもそれが「生活の練習」になるんだと思った。

ってまあかっこつけて書いちゃったけど、あの、普通に面白いです。わたしはねえドクロのタンクトップ着ている保育士アントニと、100均のディスインフェクションおじさんがツボに入ってしまってディスインフェクションおじさんのところ何度も戻っては読み、ヘラヘラしては戻っては読みってしてたよね。

 

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「私は男でフェミニストです」チェ・スンボム著 金みんじょん訳

韓国から発信されてくるフェミニズムにはいつも敬服するような内容のものがとても多くて、ジェンダーの平等に関する議論や、その考えを書籍にしてきちんと出版できる社会は良い方向に少しずつでも変わっていくのだろうと羨ましい気持ちになっている。そんななかついに男性がフェミニズムについて語ったエッセイ集がでたというのである。

日本でもフェミニズム理論などの学術・研究本は男性の著作も多くあるように思うけれども、こういう「脱マチズモ」でも「男らしさを脱ぎ捨てる」でもなくて「わたしはフェミニストである」と宣言するようなエッセイの類はあまりないんじゃないか。(無知なわたしの言うことですのでもしあるのであれば教えてください。是非読みたいので。)

それで実際のところ、男性のフェミニストはなにをするのか?大変に興味があった。だってフェミニズムの土俵でただ女性差別に対して騒ぎ立てるだけでは他人の褌で相撲を取っているようなものであるし、女性に対してフェミニズムを説くのであればはっきり言ってそれってマンスプレイニングだ。男性いう(性別二元論に基づくジェンダー認識からすれば)マジョリティがいったいどんな話を書いたんだろう。

著者のチェ・スンボムの母親の話から始まる本書を読むと、いかにキム・ジヨンの物語が韓国社会において普遍性を持った物語であったのかが理解できる。男性フェミニストは、わからないから勉強しないとといけないんだと言いながら、男性の話になら耳を傾けることができる男性を相手にジェンダー平等を啓蒙する。生徒である男子学生に対しては、警戒されないようにしながらも、男性優位社会の中で女性を蔑視することを当然として育ってきた彼らを相手に授業の内容に絡めながらジェンダー平等という意識を広めようとしているのであった。

男性フェミニストとして機能したいなら、日常の最前線に立ち、男と対話しよう。自分の価値はそこで輝く。(p.132)

ところかわれば(そして状況や社会が変われば)この生物学的ジェンダー二元論においてはマイノリティであるところの女性だって、既得権益を得たマジョリティになることはいつでもどこでもありうる話である。

社会が変わるには自分自身が変わらなくてはならない。平等な社会になるためには、より多くを持っているほうが不便でなくてはならない。韓国社会で男は既得権者である。不便なこともありのまま受け入れ、今握っているものを少しでもいいから手放そう。男が変われば変わるほど新しい日は早くやってくる。(p.133)

この男性を、自分に置き換えてみれば、自分が利益を得て、今困っている他者より多くを持っているマジョリティであることに気づいた時、おのずとするべきことが見えてくる。平等を求める誰しもが読むとよい一冊ではと思った。