#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

「キャプテン・マーベル」は"フェミニズム"ヒーローか

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マーベル初の女性ヒーロー映画「キャプテン・マーベル」なんだけど、思っていたよりずっとフェミニズム的に正しい方向で作ろうと頑張っていたので、そこらへんについて書きたいと思います。

フェミニズム的に、とかそういう湾曲した言い方をしているのはなぜかというと、最近個人的に商業主義的な作品が本質的にフェミニズムたりえるかというところに少し懐疑的な気持ちがあったりして、商業主義 of 商業主義であるところのマーベル映画を「フェミニズムである」と断言することにすこし危うさも感じるので...とはいえ「キャプテン・マーベル」はたくさんの女の子を勇気付ける作品であると思ったので、それについて書きますね。

1) 女性主体のアクション映画としての正しさ
やっぱりここで対比として出してしまうのはDC映画の「ワンダー・ウーマン」なんだけれども、あれは監督もどこかで言及していたとおりアクション映画ではあるんだけど、下敷きとしてラブストーリーである「ローマの休日」を引いているんですよね。だから女性ヒーローのアクション映画ではあるけれども、男性ヒーロー映画であのストーリーにはあまり成り得ないような気がするんですね。「ローマの休日」を下敷きにしたことによってワンダー・ウーマンの魅力を引き出すことに成功していたとしてもね。あとワンダー・マーベルでワンダー・ウーマンが故郷を出てからアクションを担う女性はワンダー・ウーマンひとりだけであるしね。(そういえばむしろ男性ヒーロー映画で「ローマの休日」を下敷きにした映画を見たくない?)

その点「キャプテン・マーベル」は女性ヒーローもののアクション映画としてとてもちゃんとしていたと思う。アクションシーンを担うのもキャプテン・マーベルだけではなく、キャプテン・マーベルがキャロルであった時代の親友マリアや、クリーの戦士ミン・エルヴァがきちんと主要なアクションシーンを担っていたんじゃないでしょうか。終盤の宇宙船チェイスシーンなんかも、主要人物のうち3/4(マリア/ミン・エルヴァ/キャプテン・マーベル)を女性が担っていたし。あの終盤のチェイスシーンなんて、まるでスターウォーズを彷彿とさせるようなかっこいいチェイスで、やってくれたな!!という気持ちでガッツポーズしましたね。

言っておくと、女のヒーロー映画だからちゃんとアクションをしろって言ってるわけじゃなくて、女性ヒーローもの/男性ヒーローもののアクション映画が同等数作られているならラブコメ風アクションとかあってもいいんだけど、圧倒的に女性主役の正統派アクション映画が少ないでしょう。わたしが言いたいのは、だからまだ「正統派な」女性アクション映画が必要とされるフェーズは抜け出してないということです。

2)「女だから」という繰り返されるメッセージ
幼少期から男勝りなことをやるたびに失敗し「女だから」と言われてきたキャロルが、本編中に回想として繰り返し挿入されます。これはやや直接的すぎるきらいもあるのではと思いもしたんだけれども、よく考えたらぼやかされるよりはずっといいんじゃないかとも思いますね。そして過去なんどもそう言われてきた、そして、クリーの戦士になってからは「感情を抑えて戦士らしく振舞うように」(感情を抑えられないことが世間ではいわゆる"女性ならではの欠点"と認識されてるってご存知でしょうか)と言われ続けるキャロルがキャプテン・マーベルとして「家父長制的、血縁的支配」から逃れるのがストーリーのひとつのキーにもなっているのではないでしょうか。つまりキャロルは地球では「男の領域に手を出そうとする悪い女性である、女のくせに」と言われ、無限の力を手の入れたクリーにおいては「感情を抑えられないから(≒女だから)」と言われ続け、女であることの欠点を内在化してしまっているとも言えるんですね。(*感情的であるっていうくだりは、女だからとは劇中では明言されてはいません)
その刷り込みの象徴があの首のチップであり、そして家父長制的、血縁的支配というのはクリーでの師弟関係です。

キャロルの肉体にはクリーの血液が流れていることは劇中にて明言されていますが、クリーというのは基本的に帝国主義的/ナショナリズムに根ざした民族でどんどん他民族を排斥して自分たちの領土を拡大していく民族なわけです。最終的にその排斥に反する行いをする、というキャプテン・マーベルはつまりは政治的な"フェミニズム"ヒーローとしての反家父長制という印を担うことになるわけです。

そして首のチップは、これはシュプリーム・インテリジェンスからは「わたしたちが力を与えた印」とキャプテン・マーベルは言われるわけですが、実はキャプテン・マーベルの本来の能力を制御するための"枷"としての働きをしていたということです。クリーによって埋め込まれた枷と、地球にいたキャロルに埋め込まれた「女だから」という呪いのような枷のダブルミーニングではないでしょうか。つまりその枷は、いわゆるガラスの天井であり、そしてわたしたち女性に対して投げられる「女なのに/女だから」という言葉でもあるということです。その呪いが、女性から本来の力を、能力を奪ってしまう、女性をコントロールしやすくするための枷だというメッセージなのではないでしょうか。その枷を自らの力で外すキャプテン・マーベルはやはり"フェミニズム"ヒーローなのです。(ごめんけど冒頭で述べたとおりなのであえてここにはクォーテーションマークつけますね)

3) 選曲の巧みさ
いや〜〜この映画なにがいいって選曲が良かったと思う。
キャプテン・マーベルが自分を引きとめようとするクリー戦士たちをボッコボコにするシーンで流れるのはノーダウトの"Just a Girl"ね。これ権利の関係で難しいのだろうけどぜひ歌詞を字幕に出して欲しかった...

「わたしはリトル・ガールだから、世界はあなたの手を握ってろって言うし、外に出たら逃げたり隠れたりばっかり。わたしってリトル・ガールだからちょっとしたこともできないんだよね。リトル・ガールだから夜遅く運転もさせてもらえない。だからリトル・ガールじゃないほうがよかったのかも。わたしは押さえつけられて生きるただの女の子。でも負けない!もう我慢できない!」っていうような歌詞なんですよ。ハァ〜〜最高じゃない?!しかもノーダウトですよ!(これはわたしの世代の問題ですね)

そしてそしてエンドロールではコートニー・ラブ率いるHoleのCelebrity Skinですよ。もうさあ〜これも歌詞がすっごいいいんだけど、やっとここまで来たけどまあ無名のままがいっか!みたいな。けど何よりもスキャンダルでしか表舞台で語られることのないコートニー・ラブの歌声をマーベル映画のエンドロールで聴けると思った?!思わなかったよぉ〜〜もうなんかめっちゃ胸が熱くなっちゃったのよわたしは....

ちなみにコートニー・ラブってニルヴァーナのカートの妻だった人なんだけどニルヴァーナの歌"Come As You Are"はキャプテン・マーベルがシュプリーム・インテリジェンスとの対話で枷を外すシーンで流れてましたね。


4)けれども...
やっぱりこれはホワイト・フェミニズムなのではと思ってしまうところもなくはなかったわけで。キャプテン・マーベルの脇を固める女性陣であるミン・エルヴァはアジア系のジェマ・チャンで、キャロルの親友はアフリカ系イギリス人のラシャナ・リンチなわけで、ある意味人種的に多様ではあるんだけど、またぞろ主役の白人を支える、トークンとしてのマイノリティみたいなことが頭に浮かんだりもするわけで。でももうここらへんって、キャプテン・マーベルをアフリカ系/アジア系/ヒスパニック系の女優が演じるとか、そこらへんまで来ないと解消されないことなんだけど、果たしてそこまで業界つうか世界が追いついているのか...ってことにもなるもんね...と複雑な気持ちに。

あとあれ、軍国主義的なクリーの戦闘服を脱ぎ捨てたキャプテン・マーベルが選ぶのは「アメリカ空軍」という別の国の軍のカラーを持った戦闘服であって、やっぱりそこは軍国主義的なんだよね。まあヒーローってそんなもんなんだけど。やっぱりアメリカのヒーローが持つ危うさや欺瞞とかをあそこで明確に意識してしまった。

あとさあ、キャロルとマリアの関係って限りなく同性愛を匂わせつつ明言はしない(マリアは子供いるけどあの家に父親の影はない)てのがまた、お得意のクィアベイティングでしょうか、とちょっとモヤつきました。

この映画で異性愛者として明確に描かれているのってあの迫害される民族だけだから、まあある意味セクシュアリティについては言及が薄いっていう見方もできるのかもだけどね。


全然関係ないけどどこぞの映画サイトが「キャプテン・マーベルの精神はセーラームーンに通じる」って書いてあって反吐が出ました。女性ヒーローだからってすーぐそうやって言うの時代錯誤だと思いま〜〜す!