#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

Netflix版「クィア・アイ」は新しいか

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もうTLでその名前を目にしない日がないくらい話題のNetflix版「クィア・アイ」、ほんとのこというとわたしはこのての番組に対してものすごく懸念があったので敬遠していたんだけれど、あまりに大絶賛の嵐なのでおっかなびっくり見てみたんですよ。そしたらこれが、もうすごくよかったんですよ...1話から滝のように泣いたし、ファブ5は外見や部屋を改造するだけじゃなくて、みんなに自己肯定感を与えてくれる。そしてファブ5の面々の魅力的なこと!わたしも改造してもらいたい...と思ってしまうこと必至である。ファブ5がこの番組を通して伝えるメッセージは、自己改造だけにとどまらず、お互いを理解すること、たとえばその改造を通して異なる価値観を持つ相手とも真摯に向き合って理解していく姿であり、分断が叫ばれるいまこそ見るべき番組であるように思う。

でも、「クィア・アイ」を視聴する上で、ある種の注意意識が観客から欠如してしまうと、ちょっと問題なのではないかと思う。つまり、この番組は「あえて超ハンサムで超センスがよくて超優しくて超素敵なゲイ男性5人」を選んでいるということ。あまりにファブ5が魅力的すぎて、視聴しているとなんかもうそういう意識が吹っ飛んでしまうんだけど、これって何も考えずに見てしまうと、(まあもちろんみなさんわたしより賢くで問題意識も持ってて懸命だろうからお持ちであろうとは思うんだけども)「ゲイ=センスが良くて、ちょっと辛口に批評してくれるけど、ダメなわたしを受け入れてくれて、自己肯定感や元気をも与えてくれる」っていうステレオタイプの再生産に繋がってしまいかねないとわたしは思う。

このおしゃれ云々というゲイ男性のイメージは昔からあるゲイ男性に対するステレオタイプであるとわたしは思っていて。(日本でもメディアに登場するゲイ男性はある種のステレオタイプに沿う人たちしか目にすることがなかったりもするよね)もちろんそのステレオティピカルなゲイ男性が架空の存在だとも、そのキャラクターに合うファブ5の面々がいけないとも言うつもりは毛頭なくて(だってファブ5のみんなは実在する人間であって、彼らはそれぞれ、その個性や人間性よってとても魅力的で素敵な人たちであるから、彼らを否定するなんてできるわけがない)だけども、そのステレオタイプが、その範疇にいない周縁の存在をなきものとしてしまうことも事実であることは認識していなければいけないと思う。(たとえば「ムーンライト」という映画がいままで描かれなかったようなゲイ男性を主役に据えたことがあの作品が評価された要素のひとつであるともわたしは思っていて、だからその描き方の多様性もいまは求められるということ)

たとえばカミングアウトしていなかったゲイ男性を変身させる回(S1E4)では、着る服に悩むAJをモニターで見守るジョナサンが「こんなに着る服を選ぶのに手間取るゲイなんてはじめてじゃない?!」というのだけれど、そんなわけない。オシャレじゃないゲイだって、センスのないゲイだっているはずだ。AJはホモフォビアを内面化してしまって苦しんでいるだろうはずなのに、この発言は視聴者にもステレオタイプを強烈に(ネガティヴな意味で)意識させてしまうだろう。わたしはともすれば、この番組を純粋に楽しんで消費してしまいそうになる。たしかにこの番組は面白いし、感動する、ファブ5は素敵すぎる。わたしもファブ5のことが大好きだ。だけど、わたしはこの番組によって強化されてしまったかもしれない、そのステレオタイプによって苦しむ人がいることも、忘れたくはない。

あと難しいのはファブ5は誰かを演じているわけでもなくて、彼らは彼らなんだよね。だからクィア・アイの番組として、ショウとしての「ステレオタイプの消費」を批判しようとするとき、わたしはその刀で大好きなファブ5のことを斬らなきゃいけなくなってしまう。なんかもうつらくなってきた。(まあこんなブログ書かなきゃいいだけなんだけどさ!)

あと海外のレビュー見てると「多様性を取り入れたクィア・アイの新キャスト」って書いてあるけどいわゆる黄色人種のゲイ男性はここでも透明化してしまっているという問題もある気がするな...あとレズビアンが5人集まった番組っていうのは見ないよね。クィアっていうのは「ゲイ男性」だけを指すものではなく、様々なセクシュアル・マイノリティを表す言葉なはず。となれば、もっと番組の視野が広がってもいいのではないかな、と思ったりもして。

あと日本版Netflixは、なぜこの番組にオネエ言葉の字幕をつけたのか。ファブ5は別に普通に喋っているんだから、わざわざ視聴者をステレオタイプのほうにミスリードするような字幕をつけるべきではないとわたしは思います。

 

ところで、わたしは毎回何かに文句をつけるたびに「ステレオタイプな描写があってもいい」でも「ステレオタイプの再生産はもうそろそろいいのでは」っていうダブルスタンダードみたいなところにはまりこんで身動きが取れなくなってしまう。もう何も言わないほうがいいのかもしれない。なんていうか...いまはこのクィア・アイが楽しいし最高だと思う!でもこれがベストオブベストではないし、これからもっと良いものも作れるんじゃないか、って気持ちでこういうこと言って、楽しんでるひとたちの気持ちに水を差してしまう自分がときどき無性に嫌になったりもする。

 

追記: いまふと思ったんだけど、わたしがここで思う消費っていうのは、結局ゲイ男性のことを「マジカル・ゲイ」みたいな側面で消費してしまうことに対する危惧だったりもする。この番組の性質上、それはどうしようもないことだけれども、その意識なくこの番組を鑑賞することで、そのわたしたち視聴者にとって都合の良い、そして感動を与えてくれる「マジカル・ゲイ」としてのキャラクターを無意識に消費してしまうことは危険であることをわたしは常に意識していたい。