#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

映画はあなたの写し鏡 「シェイプ・オブ・ウォーター」

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これを書いてる今、わたしはものすごく困惑している。

なぜなら超話題で、みんなが絶賛していて、アカデミー賞もとっちゃって、もちろんわたしだって超期待していた映画「シェイプ・オブ・ウォーター」について、わたしは全くと言っていいほど心が動かなかったどころか、映画を見ている最中ずっと心が冷えていって、映画館を出てから友人に「わたしの心がシェイプ・オブ・コールドウォーターです」なんつってラインをしたほどなのだ。(正座してこれ書いてるけど膝が痛いので座布団をいただけますか?)

 

で、まあこの映画が大好きな人たちをクサすつもりも、コールドウォーター(座布団??)を浴びせるつもりもないんだけれど、批判するつもりもなくて、わたしは自分の「ダメだった」という意見を、ひとつの意見として書いておきたいと思うのである。わたしは自分の頭でこう考えた、という意味で。だからNo Offence!これを読んで嫌な気持ちになったらごめんなさい。

 

書き終わってここに立ち返ったけど、言いたいことをちゃんと言えてる気がしない。文章が下手。もうだめ。

 

この映画は、発話障害があり、パートタイムの夜勤掃除婦という、社会では透明になってしまいがちなキャラクターを主人公としていて、その友達には孤独なゲイの絵描き、そして遅刻ギリギリで職場に到着するエライザをいつも助けてくれ、半魚人救出作戦に力を貸してくれる同じ掃除婦として働く黒人女性が登場する。これらのキャラクターはビッグバジェット映画ではあまり用いられることのない弱者であり、実社会でも透明人間のようだとも言えるだろう。そういう黙殺されてしまいがちな人々が登場人物のほとんどである映画であるという意味でこの作品を評価されているという記事を読んだけれども、果たしてそうだろうか。

しかし、映画中に登場はしたが、彼らは物語の進行にとって、都合の良い使われ方だけをしてはいなかっただろうか。(少なくともわたしにはそう思えた)ゲイの友人、そして黒人女性は「マジカル・ゲイ」「マジカル・二グロ」としてしか機能していないのではないかとわたしは思う。

映画界には「弱者が描かれない」という批判も存在し、この映画はその問題点は弱者を主人公にすることによってクリアしていたと思う。しかし「描かれた弱者が物語にとって」ここでいえば、異性愛者の白人女性の物語を補助する役目だけではなかったか。正直、わたしにはゼルダとエライザの友情という関係性が、10年ペアを組んで掃除の仕事をしていること、そしてゼルダが毎日遅刻ギリギリでくるエライザのタイムカード押しの順番をとっていてあげたりすることを通してしかうかがい知ることができず、物語を推し進めるだけの装置としてしか機能していない。パートタイムで働く黒人女性や、ゲイのキャラクターを多く登場させ、そのことのみで「映画における多様性」という問題点に一定の評価をしてしまうことに、わたしは疑問を感じる。(これは言い過ぎかもしれないが、多様性を本当に意識して作られたのなら、エライザが黒人女性で、ゼルダが白人女性でないのはどうしてか?とも思うし。)

 先ほど、わたしはエライザを異性愛者と言ったけれども、わたしの中には彼女を異性愛者ということに躊躇がないわけではない。つまりこの映画の中では彼女の相手は半魚人なので、エライザが異性愛者であるかを断言することは難しい。しかし、劇中では半魚人にはペニスがあると話されていたし、そのセックスも異性愛的な"Sexual Intercourse"であることが示唆されていた。こう考えてみると、せっかく「異形なもの」との「真実の愛」が描かれたにもかかわらず、その愛が異性愛的性愛に結びついてしまったのも、すこしもったいない気がする。(とはいえ異形なものとの恋なのだから、異性愛的性愛ではないものが描かれるべきと主張したいわけではない。べつに異性愛的な物語だってあった方がいいに決まってる。けれども現在において異性愛的性愛の話はたくさんあるけれども、非異性愛的性愛以外のラブストーリーの数が圧倒的に少ないのもまた事実である。)

 

それと、かねてからわたしは「シェイプ・オブ・ウォーター」は「真実の愛」の話であると聞いていたのだけれども、これが愛の話なのであれば、愛というのはぞっとするほど身勝手な話だとわたしは思う。(あーでも愛って身勝手なもんだよね。)映画を見ている間中ずっと、わたしはカーソン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」のことを思い出していた。登場人物に発話障害がある点や、主に弱者が描かれるところなど、共通点もあるのではないかと思ったのだけれど、それよりもなによりも、「心は孤独な狩人」では、発話障害のあるシンガーという主人公に様々な社会的弱者たちが自分の心情をぶちまけ、そしてただ穏やかな顔をしてその話を聞くシンガーに対して皆が「彼は神のようだ」と彼の事を神格化していくのだけれど、シンガーはシンガーで自分の事だけを話し、相手は聞くだけという一方的にも思える関係の友人がいるのだ。わたしはこの本を読んだときに、人は誰しも物言わぬ(物理的にという意味ではなく)他者に自分を投影したがっていて、否定せずに自分を投影させてくれる人を愛し、神格化するけれども、結局それは自己愛でしかなくて、人は身勝手だし愛というのはなんて身勝手なんだろう。どこまでも一方通行でしかない。。。」みたいなことを思って、心から血が出ていまもそこが痛いんですけど、「シェイプ・オブ・ウォーター」における半魚人も、「心は孤独な狩人」におけるシンガーと同じ役割を担っていると思う。

エライザは「彼の眼を見るとき、彼はわたしを理解していると思う」と言っているけれども、実際には半魚人がエライザのなにを理解しているのか、はたまた彼女を愛しているのかというのはわたしたちには明かされない。たしかに「わたしと/あなたは/一緒」というけれども、その愛情のはぐくまれた理由が、あまりにも描かれないのである。これはすこし不気味ではあるまいか。エライザはもしかして、物言わぬ彼に自分自身の幻想を投影していたのかもしれず、物言わぬ彼が一体エライザに何を思っていたのか、それは計り知れないのである。

半魚人がもしかしたら向かい合う他者の願望を映し出すのではないかと思ったのはもうひとつ、薄毛に悩むジャイルズの髪を生やしてやるような描写があったことで、あそこはちょっとコミカルで笑ってしまったんだけれども、自らの願望を半魚人に投影したジャイルズは「彼は神じゃないか」とまた彼を神格化する。

この物語が真実の愛の物語なのであれば、やはり愛とは自らを他者に投影することにほかならず、いったいこの物語における半魚人とはなんだったのであろうかと考えてしまうのである。また、エライザと半魚人の関係性の構築の描き方もじつは、2人が心を通わせているような場面がうつされるのみで、わたしたちには二人の間に愛という共通の感情があるという、わたしたちの願望を投影させているのではないか。つまり半魚人に自らの欲望を投影するエライザに対し、わたしたちは、わたしたちの思う「愛」という欲望を投影することによって、自分の見たいものをこの映画に見ているのではないだろうか。(だからわたしも自分の見たいようにこの映画を見てこんなこと書いてるってこと!)

登場人物たちの動機や感情があまり明確にあらわされない映画であったように思うのだけれども、その中でやたらと描写が細かかった人物がひとりいた。その人こそが今作の悪役であるストリックランドである。彼は現代社会の権力の権化ともいえる人物だったけれども、その実、彼も「社会」という場所では弱者であった(とはいえ彼はそうは思っておらず、自らの権力を信じて自らの使命に邁進するのだけれど)という、この人物はものすごく現代社会における権力に対して批判的な目線で造形されたキャラクターである。だって彼は現代社会のなんというか、権力的マチズモに溢れているんだけれども、彼はそれを正しい、「まともである」として生きてきて、たったひとつのミスで上司からは「まともっていうのはミスをしない人の事いうんだぜ」と言われちゃうんだよ。悲しきかな中間管理職。ここらへんはすごく、意図的にマチズモ的権力批判になっていた。最近マチズモ的な価値観を壊していこうみたいな話が多いように思えるんだけど、この映画もマチズモの悲哀映画としては、よくできてたんじゃないかと思う。彼の言う「まとも」から外れるにつれて彼の失墜を表すように腐っていく指、そして「成功の証ですよ。あなたにこそこれがふさわしい!成功者です!」とおだてられて好きでもないと言っていたグリーンのキャデラックなんか買っちゃって(ティール!です!)しかもその車も、自分の失墜のきっかけとなる半魚人逃走計画の最中に盛大にぶつけられてたし。車=男根/男性性の象徴、なんて言ったりもするけど、ストリックランドにだけこういうメタフォリカルな描写が多かった。なんか弱者たちのバックグラウンドがあまりにも描かれないのに、ストリックランドだけ車や、家族や、ものすごく懇切丁寧に描写されてて、すごいアンバランスな不思議さがあった。ストリックランドに共感したという方のブログを読んだけれども、たしかにストリックランドだけがものすごく丁寧にキャラクターとして描写されていたので、そう感じる人がいてもおかしくないのではないか。

 

いいたいことがぐちゃぐちゃになってきちゃったけれども、なんというかこの映画は見る人によってものすごく投影するものが変わる映画なのかな、と思っていて、だから「水の形」というタイトルもすごいしっくりきていて。「水の形ってどんな形?」と言ったらおそらくみんな違う答えを返すように、この映画も見る人が見るものによって形を変える、まさに「シェイプ・オブ・ウォーター」というタイトルがふさわしい映画なのではないだろうか。そう思えばよい映画だったのかもしれない。