#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

理論と実践の狭間で-バッド・フェミニストによせて-

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理論と実践の間には、少なくともわたしのいるこの場所から見ると、乗り越えれない深い断絶があるように思える。

わたしはよく、こんな記事を目にする。「ジジイに媚びるのは処世術じゃない!」「若い女性はジジイに媚びるべきでない!」「女だからってさせられるお茶汲みやお酌にはNoと言おう!」

なんだか、日本にもようやくフェミニズム、というか性差別を是正しようという流れがやってきたのかな、と少し嬉しくなる。それでも、わたしはそのような記事を読むたびに、なんども傷ついている。

もちろん、媚びること、お酌をすること、職場で「物事を円滑にすすめるために」笑顔を見せること、それがどれだけよくないことか、理論上は、よくわかっている。それらの「媚びをなくそう」と女性に呼びかける記事は、とても正しい。なぜなら理論上は、「女性だから笑顔でいなよ」と言われてた見せる笑顔は間違っているし、女性だからと(非言語下でも)強要されるお酌もお茶汲みも、職場で物事を円滑にすすめるために年上の男性に媚びることも、間違っている。わたしたちはもっと性差別的に押し付けられる振る舞いから自由になるべきだ。

けれども、わたしが住んでいるこちら側は、笑顔を見せなければ、「可愛げもない」と影口をいわれ、お酌をしなければ「お高くとまって感じが悪い」と言われ、媚びなければ仕事が円滑にすすまない世の中だ。波風立てずに仕事をしていきたいなら、笑顔を見せて適度に媚びなくてはいけないのだ。これがわたしの住むところの実践だ。

率直に言ってしまえば、仕事が円滑にすすむなら、媚のひとつやふたつ、お安い御用だとわたしは思っている。お酌で仕事がスムーズにすすむなら、それも仕方がないと思ってしまう自分がいる。

わたしにだって媚びずに、笑いたいときしか笑顔を見せずに、お酌やお茶汲みなどわたしの仕事ではないと言い切って生きていきたい。でもそれを実践したとき、「なんて女だ」と言われ、それをやったことで苦労するのは、ほかでもないわたし自身だ。

媚びるな、という記事は、わたしが媚びをやめたことによって、わたし自身が背負い込むであろう苦労を、汲んでくれているのだろうか。わたしの世界の実践は、わたしが理想とする理論とは、あまりにもかけ離れている。抑圧されている人に理論をふりかざして「こうすべき」というのは簡単だけれど、そこで悪いと指摘されるべきなのは抑圧されている者なのだろうか。わたしにはわからない。どうかすると、それらの記事を書いているライターの方たちの住んでいる進歩的な世界と、わたしが住んでいるまだまだ昭和のような世界が、同じ国での出来事だと思えなくなる。

もちろんわたしの中にもフェミニストはいる。そしてわたしは、物事を円滑にすすめるために笑顔を見せ、お茶汲みをし、お酌をするたびに、彼女を、わたしの中のフェミニストを、ぶん殴っているような気持ちになるのだ。いまではわたしの中のフェミニストは、小さくなってしまっているし、あざだらけでボロボロだ。

毎日毎日、フェミニストとしての理想を裏切るようなことをしないと、わたしはこの社会で生きていけない。少なくとも円滑に社会生活を進めるためには、フェミニストである自分自身を裏切らなくてはいけないことがなんどもでてくる。だから、わたしはわたしが生活しているこの社会で、フェミニストであることは、悲しいほど難しいことだと感じている。

フェミニストである」ために正しいとされる理論と「実際に社会で生きていくこと」という実践の間には、深い断絶があって、わたしはその断絶の中で毎日苦しんでいる。

だから、わたしにとってロクサーヌ・ゲイの「バッド・フェミニスト」は、ただピンクが好きだとか、女性蔑視的な音楽を聴いてしまうだとか、趣味趣向だけの問題ではない、もっと大きい救いだった。「バッド・フェミニスト」は理論と実践の間にある、深すぎるほどの断絶に、少しだけ橋をかけてくれたような気がしたのだ。

わたしがいるところからすれば、フェミニストを自称する必要など全くないなんてことはありえない。むしろわたしは、この世界で、正々堂々としたフェミニストでいることは、なんと難しいんだろうと考えている。

 

・最近の媚びるな案件「おっさんへの“媚び”に得はなし」働き女子が30歳までに知っておくべきこと|ウートピ

この記事は、セクシュアルハラスメントに耐えてしまうことと媚びを混同しているような気がする。セクハラに耐えることは媚びではないし、あからさまな下心を持って近づいてくる年上の男性と、経験の豊富な(マンスプレイン)男性にときめいてしまうこと、それに警鐘を鳴らすことは大切だ。セクハラにはNOと言うべきだし、若い女性に下心を持って近づいてくる年上の男性なんておおよそろくでもない。そこには同意する。

けれども「媚び」という言葉には非常に多くの日常的行動が含有されてしまうから、言葉を生業にしている人々の対談としては、言葉のチョイスが大雑把なのではないか。

個人的には「セクハラに耐えること」「下心を持って近づいてくる年上の男性に毅然とした態度をとること」と「媚びるな」ということは相容れないことではないかと思う。

 

追記: 自分が性差別的な業務をやっていないからといって、「媚びはやめよう」と言ってしまうのはそれこそどうなのかな?別の女性がその仕事をやらされてないかとか、自分が媚びる必要がないのなら他に目を配れるところがあるよね?それがフェミニズムじゃないのかな?自分がやってないからいいって、それじゃ「媚びるな」って書いてるその記事と同じなんじゃないのかな...違うのかな...