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#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

【翻訳】ロクサーヌ・ゲイ「バレンタインデーを嫌うのを、やめてみようと思う」

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明日はバレンタインデーですね!!

わたしも毎年、このころになると「またか...」という気持ちでバレンタインデーやそれにまつわるものを嫌っています。

いまだって、わたしはバレンタインデーに対して素直になれない。

それはたぶん、ただ愛を伝え合う記念日である以上に、ここ日本では、バレンタインデーというものにすら性別的役割が押し付けられているからなのかな、と思ったりもする。

わたしは社会人7年目だけれども、いままで会社の人にチョコを渡したことがない。わたしの上司は憎たらしすぎて、あげるチョコなどないのだ。

しかし今年、はじめて部署に顧問と先輩が入って、この2人がとてもよくしてくれる(今年、わたしは会社に入ってはじめて、2人が誕生日を祝ってくれたのが、すごく嬉しかった)ものだから、なんと!自発的にチョコをあげてみようという気になったのである。

あぁ、こういうものなんだな、と思った。この前書いたお酌の記事もそうだけど、押し付けられるものは嫌だけど、自発的にでた行動は、全然嫌じゃなかった。というわけで、わたしは、ほんの少しだけ、バレンタインデーと和解ができそうである。

というわけで、みなさまへのバレンタインプレゼントとして、2015年にロクサーヌ・ゲイがガーディアンに寄せたバレンタインデーについてのコラムを翻訳してみました。(何か問題があればすぐに取り下げます)ぜひお読みいただければ幸いです。

 

(原文)

I am giving up hating Valentine's Day. Celebrating love is a beautiful thing | Roxane Gay | Opinion | The Guardian

 

(翻訳)

ロクサーヌ・ゲイ 「わたしはバレンタインデーを嫌うのをやめたい。愛を祝うことは、美しいことだから」

 

わたしはバレンタインデーを、いつも苦々しく思っていた。恋人がいても、バレンタインデーが嫌いだったし、独り身でも、バレンタインデーが嫌いだった。愛とロマンスの企業化と、バレンタインデーが広く階級的消費者主義から搾取をするために作られたマーケティング的な記念日であることをわたしは罵ってきた。わたしはショッピングセンターにある宝石店のコマーシャルに対して呆れたように目を回した。わたしはすべてのキスが、宝石から始まるわけではないと知っているのだ。(*訳注 Kay Jeweryという宝石店の"Every Kiss Begins with Kay (すべてのキスは、Kayからはじまる)というキャッチコピーをもじっている)

今年、わたしはバレンタインデーにすすんで身を任せてみようと思う。だって、根本的なところをつきつめれば、愛を祝福するための記念日を嫌うために多大なエネルギーを費やすのは、ものすごく疲れることだから。

わたしは結婚したことがない。将来結婚するかもわからない。結婚したいとは思っているけれど。なぜ結婚してないのかと聞かれたときには、わたしの両親は幸福な結婚生活を42年も続けているんです、と説明する。だから、結婚という誓いに対してのハードルがものすごく高く感じるのだ。

でもわたしはかわりに、こう打ち明けよう。わたしはとても長い間、愛という概念に恋をしていた。何があっても無条件にあなたを愛し返してくれる人を見つけられるということ、完璧にあなたを愛してくれて、足元からあなたをすくい上げてくれるような。そしていちど愛を見つけたら、あなたの世界すべてが完璧にうまくいくのだ。わたしは人格形成期にたくさんのロマンス小説を読みすぎたのだ。わたしはロマンティックコメディを偏愛している。わたしはなぜロミオとジュリエットがあのような最期を迎えることになったわけを、理解できる。

わたしは愛という概念に恋をしていた。だからわたしは自分の恋愛関係においても、精巧なフィクションを作り上げたのだ。どんな恋人とでも、わたしは愛にとてもよく似たものを分かち合っているのだ、と自分に信じさせるためのフィクションを。わたしは「愛している」と、まるで言葉が通貨であるかのように言う。その言葉がわたしの情熱の対象が、わたしの気持ちに純粋に報いるようにしてくれるかのように。しかしいつも、そういう関係はうまくいかない。

もしくは、こう打ち明けることもできるかもしれない。わたしはロマンスに関連するアドバイスを、あまりにも信じすぎていた。わたしは「THE RULES 理想の男性と結婚するための35の方法」のようなものを真剣に信じていたし、愛がこんなにも信じ難く、突発的で、びっくりするほどメチャメチャなものだとは、想像すらしていなかったのだ。

わたしは愛にまつわるいろんなことを知っているし、わたしが愛について知っていることについて自信があった。だから、わたしが愛について知っていることに矛盾することはなんでも、そんなの嘘だろうと考えたのだ。いまでは、わたしは愛を知っているし、愛については何も知らない。かつてわたしが自信を持って知っていたことは、なんの意味もなさなかったのだ。

わたしは愛する。けれども、どう愛されたらいいのか、どう人から見られるか、そしてわたしがいかにダメな女性かを知ることについては、少し自信がない。なぜならそれには身をまかせることが必要になるから。わたしは完璧じゃないけれども、どちらにせよ、もしかしたら誰かの情熱に値するのかもしれないと認めることが必要になるからだ。

ときどき、見知らぬ人が、愛しているとわたしに言う。そいいう時、わたしはく震え上がる。だって、彼らがわたしに対してそんなに強烈な感情を持てるはずがないのだから。まあ、少なくとも、わたしは自分にそう言い聞かせる。その一方で、たしかに彼らがわたしを確かに愛している可能性も受け入れなければいけない。彼らが、自らその言葉を選んでくれたこと、そのことを尊敬しなければいけない。わたしはそのことにも、身を任せなければいけない。

愛というのは、強烈な感情で、そしてとても力強い言葉だ。でもわたしたちは、愛という言葉を軽々しく使ってしまう。「わたしはチャニング・テイタムを愛してる」わたしはよくこう言っている。わたしは、チャニング・テイタムの人格とルックスが大好きなのだ。(女神よ、あの首がたまらないのです!)でもわたしは、本当の意味で、彼のことを愛しているだろうか?それは違うだろう。わたしは自分の電話を愛してる、この前見つけた靴を愛してる。睡眠を愛してる。愛にも色んな尺度があるのかもしれない、と思う。

わたしは、いつか愛という言葉を軽々しく使うことをやめるようになるのだろうか?わたしはそんな無謀なことは気にしないけれど。でも、その言葉を注意深く使えば、わたしの意図はより明確になる。その言葉を使うとき、わたしは確信が持てるのだ。その確信がとても弱い地面に立っているものだったとしても。つまり...目と目があって、わたしは怯える、わたしの心は躍り、そして目をそらせなくなる。