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#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

Sarah Hepola “Blackout: Remembering the things I drunk to forget”

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全国酒クズ連盟のみんなー!聞いてるかーい!
アリーナのみんなー!酒は好きかー!
スタンドのみんなー!飲んでるかー!
今日も記憶!飛ばしてこー!

いま、これを読んでいるあなたの「オゥイエーイ!」というレスポンスが、わたしのもとに届いていますよ。ありがとうございます。全国酒クズ連盟のみんな、心の友よ!今夜もジョッキ、傾けていこうな!今夜もボトル、あけていこうな!

飲酒は楽しい。けれども(わたしにとっては多くの場合)1杯飲むごとにどんどん勢いづいて気がつくと覚えていられない量のお酒を飲んでいる。もしくは、知らない間にボトルが入っている。そして、どういうわけか、あっという間にそのボトルが空になっている。無くした記憶は数知れず、酒を飲んで楽しくなったあとの奇行もかぞえきれないほどだ。わたしが酒を飲んだ場所には必ず、わたしの失われた記憶が落ちているはずだ。(わたしの記憶を見かけた方、ご一報ください)

たいていの場合、記憶を無くした翌朝は、猛烈な自己嫌悪とともに目がさめる。自己嫌悪には、ひどい二日酔いがついてくる。記憶がないから、あてもなく自己を嫌悪するしかない。また、こんなに酒を飲んでしまった。また、記憶がなくなっている。何も思い出せない!そして翌朝知人からの連絡で「昨日ワイキキビーチをパンツ丸出しで駆けずり回ってたけど大丈夫?」(ちなみに大丈夫なわけないでしょ、なんも覚えてないけど!)などと、まったく身に覚えのない事実を知ることになるのだ。まったくもって怖い話である。

先日ポーラ・ホーキンスの「ガール・オン・ザ・トレイン」を読んでいて知ったのだけれど、この泥酔時の記憶が全くない状態を「ブラックアウト」と言うそうだ。「ガール・オン・ザ・トレイン」については、主人公のレイチェルが酒を飲んで公園で寝て、アリにたかられていたところに非常に身に覚えがあったので、他人事ではない話として冷や汗をかきながら読んだ。

そしてちょうどわたしが「ガール・オン・ザ・トレイン」を読み終わったころに女優のカット・デニングスのブッククラブの課題図書になっていたのがこの本 “Blackout : Remembering the things I drunk to forget"である。

「ブラック・アウト」とは、端的にいえばお酒を飲みすぎて記憶を飛ばすこと。

著者のSarah Hepolaによれば、断片的なブラックアウト(ブラウン・アウトとも言う)は脳の記憶スイッチがカチカチとONになったりOFFになったりするような状態で、たとえばビールをオーダーしたことは覚えていても、そのバーにどうやってたどり着いたかは覚えていないというかんじ。(身に覚えのあるみなさん!わたしもとても身に覚えがあります!)

そして全体的なブラック・アウトは、完全に脳の記憶スイッチがオフになってしまった状態で、何時間も記憶がなかったり、たいていの場合は夜の途中から朝起きるまでの記憶がなくなってしまう。(ええ、わたくしこちらも身に覚えがありますね…)

なぜブラック・アウトになるのか?それは、お酒の種類には関係がなく、血中のアルコール濃度と、その濃度がどれだけ早く一定のレベルに達するかが、ブラック・アウトに関係している。断片的なブラック・アウトで血中のアルコール濃度が約0.20%、全体的なブラック・アウトでは血中のアルコール濃度が約0.30%で、脳の長期記憶を司る海馬が機能停止し、記憶が失われるのだ。

ブラック・アウトは、記憶は失っているけれども、気を失っているのではない。長期記憶を司る海馬が機能停止しているだけで、短期記憶(約2分程度持続する記憶)のほうは機能している。そのため、ブラック・アウトの状態でもふつうに会話に参加できるし(そのかわりしばらくすると記憶がなくなるので、同じ話を何回もしがち)、実際にはバーで面白い話を披露したり、ほとんどいつものように振る舞うことができるのだ。(しかし翌朝の記憶はなし)一緒に飲んでいる誰かがブラック・アウト状態だとは、ほとんど気づかないほど。

そして(ここが重要)ブラック・アウト中に失なわれた記憶は、取り戻すことはできない。保存されていないものは、復元できないのと同じことなのだ。(…
というわけで、わたしが泥酔して道端に置き忘れてきた失われた記憶は、もう2度とわたしのもとには戻ってこないことが判明いたしました。)

ハッとしてしまったのは、現代においてはお酒が「社交の潤滑油」になっていると、サラは指摘する。誰かと会う時に、なんと声をかけるだろう。わたしは間違いなく「飲みに行こう」と声をかける。たとえば知り合って間もないだれかと、遊びにいくときに「ちょっと公園に行かない?」というと何かすこし変なかんじがする。しかし「飲みにいこうよ!」であればカジュアルで、気が置けないお誘いになる。

それにわたしは極度の人見知りだ。知り合ったばかりの人と、デートにいって、お酒もなしに話ができるか?絶対にむり!いますこし想像しただけで、はずまない会話、気まずい沈黙、早く帰りたい気持ちが押し寄せてきて、完全に体がお酒を欲してしまう。

お酒はすごい。ほんとうに(こんなちょっと想像しただけでも)アルコールは社交の潤滑油だ。わたしの、引っ込み思案なところや、自信のなさを消してくれる。お酒を飲めば、わたしなんてちっぽけなことが気にならなくなって、ただただ楽しい。素直にいろんなことが楽しくなる。

けれども、「わたし」にまつわるいろんなことを吹き飛ばしてくれるものたち、たとえばお酒、たとえば恋愛、たとえばドラッグ、それらに一歩でも依存してしまったとき、わたしは暗くて、じぶんすらも見えないトンネルに入ってしまう。

依存から脱するには、そのトンネルから手探りで、そしていろんなものを失いながら出ていくしかない。それもじぶんひとりの力で。トンネルの中には出口に通じるロープや、すこしの灯りもない。

アルコール依存から脱するサラの手記は、サラがまたじぶん自身を取り戻すための手探りの記録だった。暗いトンネルの中でみえなくなったじぶんを、もういちどトンネルの出口までじぶんで連れていく、その闘いは、いくらユーモラスに語られていても、アルコールでヒリヒリする喉や、失われた記憶や、たくさんの失敗に満ちていて、わたしのことのように痛い。