#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

「クリムゾン・ピーク」における女の子への目配せ

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ギレルモ・デル・トロ監督の新作「クリムゾン・ピーク」は、上質で美しいゴシック様式にお化け屋敷に来たような、素晴らしいホラー映画だった。また、この映画には監督からの明確な「女の子への目配せ」があったように思う。

ここには「クリムゾン・ピーク」における「女の子への目配せ」をまとめたいと思う。

※盛大にネタバレしております。
素晴らしい映画ですので、映画をご覧になってから読んでいただければと思います。

1) はじまりと、本を読むヒロイン

この映画は、古い本の表紙が映ってはじまる。この本には「クリムゾン・ピーク」とこの映画のタイトルが記されており、この表紙がめくられて映画がはじまる。

ここでわたしが思い出したのは、誰もがいちどは見たことのあるディズニーのプリンセス映画だ。

数多くのプリンセス映画も「昔々あるところに…」と古い本がめくられるところからはじまる。

そして、ディズニー映画の「美女と野獣」のヒロイン、ベルは本を読むヒロインである。この本好きのヒロインというのは、知識を手にした女性としてディズニープリンセスたちのなかでも、革新的なキャラクター設定だと言われている。

この映画でも、そのベルのイメージを踏襲したのか、従来のヒロインのイメージを覆す設定である。ヒロインのイーディスは本を読み、本を書く女性である。しかも、彼女の書く本は幽霊譚である。作品を持ち込んだ出版社には「ロマンス小説を書いてはどうか?」とまで言われている。

この始まり方、そしてヒロインのキャラクター設定には、わたしたちの多くに馴染みのある、ディズニーのプリンセス映画への目配せがあるのではないだろうか。

2)Manjestification(男性の対象化)

Manjestification(男性の対象化)とは、Man(男性)+Objeatification(対象化)という2つの単語をつなぎ合わせた造語で、「男性を対象化する」という意味を持つ。

従来、ほとんどの場面で女性が対象化され、消費されてきた。映画だけではなく、現実でも、女性はその容姿や性が消費の対象とされてきた。これに"No"を唱え、男性も消費の対象としていこうというのがこの"Manjestification"である。

さて、「クリムゾン・ピーク」におてはどうだろう?この映画では、たしかにミア・ワシコウスカ演じるイーディスの裸体も登場する。しかし、彼女の胸や尻などはスクリーンには映らない。

この映画で、唯一「性的なもの」として映るのはトム・ヒドルストン演じるトーマスの尻である。

雪で家に帰ることが困難になったイーディスとトーマスは、郵便局の地下にある部屋に宿泊し、そこでセックスをするのだが、ここでイーディスが服を脱ぐことはない。

しかし、ここで大きく(そしてそれを映すという明確な意図を感じさせるように)映されるのがトム・ヒドルストンいや、トーマスの尻である。

クリムゾン・ピーク」においては、ラブシーンにおいてほとんどの場合に対象化される女性の裸を映さずに、男性の尻を映すというのは、従来の対象化の概念を覆そうとする"Manjestification"であると言えるだろう。

3)ファンガールへの目配せ

文学表象において刃物はしばしば、男根のメタファーとして読みとられる。つまり、ナイフを刺すという行為は、性行為のメタファーにもなる。

この映画において用いられる凶器のほとんどはナイフであり、ナイフを用いて他者を刺すのはイーディス、トーマス、ルシールの3者であることは、この3者の性的な三角関係を表すように思える。(時代関係から銃が無かったのかとも考えたけれども、お屋敷で出迎えたファーガソンは猟銃を担いでいたように記憶している)

そして、そのナイフで刺すという行為のなかに、この映画においてもっとも視覚的に美しくロマンティックなシーンがあったように思う。

そのシーンというのは、トーマスがドクター・アランを刺すシーンである。メタファーとして捉えれば、これは性行為の暗喩ともとれるかもしれない。(トーマスは刺すが、アランが刺し返すことはない)そして、開いたドアからは、雪が舞い込み、倒れるドクター・アランを抱きとめるトーマスのシルエットは、さながら少女漫画の一場面のようにも思える美しいシーンだった。

わたしには、どうにもこのシーンが、一般的にファンガールと呼ばれる女性のファン層への目配せのように思えるのだ。(わたしはファンガールやスラッシュにあまり馴染みがないので、ここについてはプロのファンガールの皆様のご意見をすごく聞きたいところ)

4)誰がイーディスを助けるか

お決まりのたくさんの物語のなかで、ヒロインを助けるのはヒーロー、白馬に乗った王子様である。

しかし「クリムゾン・ピーク」において、たしかにドクター・アランはイーディスのことを救おうと、アラデル・ホールへ向かう。

しかし、彼女を助け出そうとしたところで、ルシールに刺されてしまう。トーマスからとどめ(と思わせる)さらなる一刺しを受けると、彼はむしろ救う側から救われる側となる。そして、イーディスを助けようとするトーマスもルシールに刺されて亡くなってしまう。

そう、この映画の中で、イーディスを救うのは彼女自身であり、そこには白馬の王子様も、ヒーローもいないのだ。

「助けられるヒロイン」という定石を覆すこの展開は、もう窮地に追い込まれたときに助けてくれる白馬の王子を必要としないわたしたち女の子への目配せだろう。イーディスはシンデレラ・コンプレックスから解放されたヒロインなのである。

5) 過去とはいったい何だったのか?

幽霊は過去のメタファーとされ、繰り返し劇中でも言及されていたけれども、上記を踏まえるとその過去とはいったい何を指すのだろうか?

ここでの過去とは、数々の作品に登場し、消費されてきた従来のヒロインたちではないのだろうか。

イーディスにたびたび忠告を与えるのは殺された元妻たち、虐げられた女たち(=過去=従来のヒロインたち)である。彼女らの忠告で、生き延び、そしてみずからの力で(アランを助けて)屋敷を後にするイーディスは、新しいヒロインである。

そしてこの映画のエンディングでは、最初に映った本の表紙に描かれたその作者名が登場する。

「イーディス・カッシング」と記されたその作者は、まさにヒロインそのひとであり、この物語は誰のものでもない、彼女の物語であることがわかる。

この新しいヒロイン像、そして、この「クリムゾン・ピーク」という映画がギレルモ・デル・トロからの、女の子たちへの熱烈な目配せであると思う。ほんとうに素敵な映画だった。ゴシックホラーという古くからある器のなかで、これほども女の子へのエンパワメントに満ち溢れた作品を作ることができるのだと、ほんとうに胸が熱くなった。