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#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

映画「ゴーン・ガール」のエイミーがわたしのヒーローであるわけ

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(念のため: ネタバレしております)

 

2014年の年末と年初、映画館に通いつめた。どうしてかというと、ディビット・フィンチャー監督の「ゴーン・ガール」の主人公であり、わたしのヒーロー、エイミーの勇姿を見るためにだ。

自分から気持ちが離れつつあり、浮気をしている夫ニックへの復讐のために、あそこまでするエイミーは、じっさいのところ「怖い」「性格悪い」「常軌を逸している」と評されてもおかしくないと思う。けれども、わたしはそのエイミーの行動にとても勇気づけられたし、わたしもこう強く生きなければいけないと(わりと本気で)思ったのだ。エイミーはわたしのヒーローだと。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「第二の性」でこう書いている。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」と。

つまりわたしは女として生まれた以上、女として演じなければならない。女になるために。女らしくしていなければ、幸せになれないという無言の圧力をひしひしと感じながら、わたしたちは毎日女としてふさわしいように化粧をし、洋服を着て、外に出れば女性としてふさわしいように「わたし」の本質とは違うかもしれない「女」を演じている。

無意識かもしれないが、この「演じる」ことは女として社会でやって行くうえでとても重要なのだとわたしは思っている。とくに女として好かれるために。そうでないと「結婚できない」「モテない」という無言の(ときには声を大にして言われたりもする)圧力があるのだ。(じぶんが女なので、女を演じることについて書きましたが、男性にもたくさんの「男らしさ」を演じるべきという圧力がかかっているとわたしは思います、ねんのため)

ニックの失業や浮気などで、だんだんと幸せな家庭生活から現実が遠ざかるにつれ、ボロボロの家庭生活、そしてその元凶ニックへの復讐のためにエイミーは徹底的に「演じる」のだ。(そもそもエイミーが求めていた家庭というのは、エイミーも「夫を愛する完璧な妻」を演じるが、その代わりにニックにも「妻を愛する完璧な夫」を演じることを求める至極フェアな関係だとわたしは思っている。わたしだけが演じるなんてそんなのフェアじゃない。)

まず、妻殺しという罪をニックへきせるため、エイミーは日記を書き「望ましい自分、素晴らしい妻」を完璧に演じる。日記を読んだ誰もが、彼女のことを好きになるように。

そして次に彼女は自分の「死」を完璧に演じる。台所の大量の血、ひっくり返ったオットマン、そしてぬかりなくそこの場所が殺人現場として少し怪しく見えるための小細工も怠らない。「夫に殺されたわたし」を演じるのだ。

そして事件が発覚すると、彼女の完璧な演技に世間は夢中になる。普段演技をすることのない夫 ニックがやることなすことボロを出す一方で、エイミーの演技は世間を見方につける。そう、この世の中では上手く演じた者が好かれるのだ。

隠れ先のモーテルでは、彼女はDV男から逃げてきた女を演じるが、ここでの彼女の演技はやや詰めが甘い。自分でカナヅチの打撲跡を顔につけるわりには、首尾よくいった自分の失踪に浮かれている様子だ。たぶん、これがほんとうのエイミーなのだ。わたしはあのボサボサ頭でチョコレートをかじるエイミーこそ、演技をしないエイミーだと思っている。演技をしないエイミーは弱い。浮かれて演技の手を抜いたとたん、モーテルの横の部屋に住む女とその男に全財産を盗まれてしまう。

全財産を盗まれたエイミーはまた演技を開始する。自分に好意がある資産家のデジー・コリングスの庇護を受けるべく、DVの夫から逃げ出し、子供を流産した妻を演じ、またデジーのことを愛している演技をするのだ。(もちろんその間も彼女はニックのことだけを考えているのは、インタビュー映像をみているところでも明らかである)

そしてこの頃になるとニックもようやく専門家の助けもかりて「演じる」ことの重要性に気がつくのだ。シャロンのインタビューでは、ニックもようやく「失踪した妻を愛する夫」を演じるようになる。

こうして、完璧に演じた失踪事件によって、エイミーは「演じる」という土俵にニックを引きずりおろす。わたしだけが演じて、あなたは好きにやることなんて許さないのだ。わたしも演じる、だからあなたも演じなくてはならない、それが対等な(結婚という)関係だろう、とエイミーは示しているのだ。

こうして、エイミーは「お互いに演じる」という無言の契約を結んだニックの元へ戻る。(ニックのもとへ戻るためにデジーの元を去る時のエイミーの演技は迫真だ。本気で演じる女が、色仕掛けにでるときには、他人の命を奪うのだ。)

こうみるとエイミーの失踪は、普段「演じること」につきまとわれるわたしたちにはとくに溜飲の下がる話ではないだろうか。

わたしは、普段ジェンダー的にも演ずることを強いられるわたしたちにとって、演じない者を自分と対等な関係までに引きずりおろす点において、エイミーはフェミニズム・ヒーローなのではないかと思っている。少なくとも、演じることを逆手にとって、自分の意のままに物事をすすめるエイミーは、わたしにとってヒーローなのだ。