#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

故郷を切望する物語としての「ブラックパンサー」

f:id:watashidake:20180320202823j:imagef:id:watashidake:20180320202826j:image

ブラックパンサー」を見たその足で、書店に寄ってヤア・ジャシの「奇跡の大地」を買って読んだのだけど、まったく関係のなさそうなこの2つの物語がわたしの中でものすごく結びつきあったような気がしたのでその話を書きたいと思う。あとその話書いてたらブックリストができたので「ブラックパンサー」を見たあと読むべき4冊のブックリストを記事のおしりにつけました。わたしのブログは読まんでいいから本を読んでくれ。(本のネタバレはしてないけど、ブラックパンサーのネタバレしてます)

 「奇跡の大地」の作者ヤア・ジャシは1989年生まれのケニア系アメリカ人で、「奇跡の大地」がデビュー作である。それで、この「奇跡の大地」っていうのはアフリカで生まれた異父姉妹からずっと家系図が追いかけられて、かたやアフリカに残った家系と、かたや奴隷としてアメリカに連れてこられた家系の、その子孫たちの物語が語られるんですね。ものすごいと思うのは、それぞれの子孫たちの話は数ページしか語られないし、彼らの人生のすべてが語られるわけではないのに、その語り口や語られることによって、アフリカからアメリカまで、そして奴隷制のはじまりから現代までを圧倒的な物語として立ち上ってくるんですよ。(読んで!!!!!)

「奇跡の大地」の原題は"Homegoing"なんですが、"Homegoing"というのは、アフリカンアメリカンの葬儀の伝統的な儀式で、亡くなった人が天国へ戻ることを祝福するという儀式で、それでこのタイトルは「奴隷たちは亡くなることによって、その魂が故郷アフリカに戻ることができる」という信仰からとられているんだそう。(これ知って「奇跡の大地」読むと最後死ぬほど泣いてしまうんだけど...)

この「アフリカに戻る」という話を聞いてトニ・モリスンの「ソロモンの歌」を思い出したりもして。ここでもアフリカへの回帰について描かれていたんだよね。彼らにとっての故郷は、アフリカであり、故郷への回帰を切望しているということが根底にあると思う。

 で、「ブラックパンサー」なんだけど、わたしあれはアフリカにあるワカンダ国の王子の話ではなくて、アフリカンアメリカンであるエリック・キルモンガーの"Home"(故郷)の話だったと解釈していて。これは、あのオープニングの父親に故郷の話をねだるのはワカンダですくすく育ったティチャラではなく、エリック・キルモンガーだということからも明確に示唆されていると思う。つまりエリックが"Homegoing"する物語であるということ。

だから、ワカンダという国はある種ユートピアのような描かれ方をしていると思っていて。あれは「こうだったらよかった故郷」「わたしたちがいるべきだった故郷の物語」なんですよ。(そう考えたときに、エリック・キルモンガーというキャラクターの掘り下げ方の足りなさとかも感じるけど)

ティチャラの純粋に、ワカンダという恵まれた国で育ってきた屈託のなさと、父親をブラックパンサーに殺された、ルーツをワカンダに持つ、屈託の塊のようなエリック・キルモンガーが対峙したときものすごい切なくなってしまって。(エリックの気持ち考えるととね...いや、ほんとエリック・キルモンガー最高じゃなかったです...?わたし屈託しかない悪役大好きだからほんとエリック大好きなんだけど...)

 ティチャラというキャラクターが「シビルウォー」で登場したときから、このキャラクターを「ただの黒人ヒーローにはしない」「きちんと描こう」という意思を強く感じていて、それは彼の使う英語のアクセントなんだけど、彼の使う英語ってちゃんとアフリカ訛りだったんですよね。それで「教育をきちんと受けた人なのに訛りのある英語なのはおかしい」という意見を当時目にしたりもしたんだけど(根に持ってる)、むしろそれは違うんだよね。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの「アメリカーナ」で、主人公のイフメル(アフリカでも英語を話してた)が、アメリカに渡ってずっと話してきたアフリカ訛りのある英語を「英語じゃない」みたいに言われる場面があって、ナチュラルヘアと同じようにアフリカから来たものは髪の毛も言葉もアメリカ的に矯正させられちゃう。けど、ティチャラはそうじゃなかった。アフリカにある国に王らしく、アフリカの英語を話すキャラクターだった。だからティチャラっていうのはものすごく配慮されて作られていて、その言葉ひとつとってもそこから血肉が通うようになっていると思ったわけです。

そこから今回の「ブラックパンサー」だけど、もちろんティチャラをはじめとして、きちんと「アフリカ英語」が使われているのはもちろんのこと、アフリカンカルチャーを取り入れて良いと思ったのね。もちろんまだ考えるべきこともあるとは思うけど、わたしは文化の盗用やアフリカのステレオタイプというところではあまりひっかからなくて(そういう批判があることも理解した上で、その話も聞きたいと思ってるからみんなブログとか書いてほしい)むしろ、ワカンダをアフリカにあるひとつの国としてみたときに、キルモンガーが王位についてから、ワカンダ国民が2つに分かれてしまって殺しあうわけですよね。アフリカにもそういう歴史はあって(でもそれは西洋諸国のせいだったりもして)そう考えるとCIAのロスの使い方が安易すぎると思うし、だってロスが撃ち墜としてる飛行機、ワカンダ国民がのってたよね?ワカビの部族とティチャラが戦うところだって、死人でてるよね?そう考えると終盤の展開はものすごい安易だし、あそここそ批判されてしかるべきだとわたしは思う。あの映画のアフリカ描写をアフリカ軽視だというなら、あそこの描き方こそがアフリカの歴史を軽視しているんじゃないかと思う。

と思ったのもヤア・ジャシの「奇跡の大地」を読んだからなんだけど、というわけで、ブラックパンサーを見てもっと考えたいみなさま、ぜひ「奇跡の大地」を読んでほしいと思います。

とはいえ「ブラックパンサー」がもの新しい物語だったかというと、わりとアメリカ映画(つかマーベル全部そうじゃない?)では定石の「父と息子の物語」だったし、物語の路線としてはむちゃくちゃ王道だったよね。女性キャラクターが素敵だったのは間違いないけど、やはりあれは男の物語であるとは強く思いました。

 

あと全然関係ないけど、わたしはエリック・キルモンガー死んだと思ってなくて、だってあのシーンだけ引きで取られてて明確に写ってなかったじゃん??だからキルモンガー死んでないと思うの。だからなんなら、エンドロール後のおまけ映像とか、バッキーがうつるまで、キルモンガーが出るんだと思って、死ぬほど泣いてたんだけど、バッキー出てきて涙引っ込んだし、バッキーもわたし大好きなんだけど、「ここばかりはお前じゃねぇよ!!!!!」てなっちゃったんですよね....(インフィニティウォーのトレイラーでキルモンガーを探した女より)

 

ブラックパンサー」のあとに読むべきブックリスト

1. ヤア・ジャシ「奇跡の大地」

2. トニ・モリスン「ソロモンの歌」

3. チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「アメリカーナ」

4. タナハシ・コーツ「世界と僕の間に」

 

 

 

【Recap】ハンズメイズ・テイル/侍女の物語 S1E1

f:id:watashidake:20180315195155j:image

わたしはかねてから米hulu製作ドラマ版「侍女の物語」を見るのをすごく楽しみにしていた。

日本での配信遅すぎやしない?!ふざけてんの?!なんてことあるごとに文句を言っていたけれど、それはそれだけすごく楽しみにしていたからなのである。

そしてようやく日本での配信がhuluで始まったのだけど、そして毎回配信を欠かさずチェックしているんだけど、なんか寂しい。それはなぜか!こんなに素晴らしいドラマなのに、周りに感想を言い合えるような友人がいないのである!もちろん会ったらドラマのことを話せる友人はいるけど、わたしがやりたいのは中高生のときみたいに登校して友人と顔を合わせた瞬間に「ねえ!!昨日のあのドラマ見たー?」とリアルタイムでキャッキャ感想を言う、みたいなやつ。(注: 当時わたしは家が厳しく、ドラマなどまったく見せてもらえなかったのでこれをやってる子たちを憧れの眼差しで見ていたのであるが)

というわけで、わたしはこれから、このブログで"RECAP"なるものをやってみようと思う。つまり、1話見て、ここに感想を言いに来る、みたいなこと。(欧米のメディアでは結構Recapていうのはやられていて、たとえばロクサーヌ・ゲイはアウトランダーのRecapをしている)

 

さて、では今回は「ハンドメイズ・テイル / 侍女の物語」シーズン1 第1話からやってみようかと思う。

(もちろんネタバレあります!原作のネタバレもあります!ご注意を!)

 

物語はここから始まる、パトカーのサイレン、そして何かから逃げている家族。車は路肩に乗りあげ、子供とその母親だけが徒歩で逃げる。後ろからは数発の銃声が聞こえる。あとに残された父親はどうなったのだろう。 徒歩で森を逃げる親子も、追っ手に捕まってしまう。生き別れになる母親と子供。

 

彼女は元の名を使うことを禁じられ「オブフレッド」という名前を与えられている。これは「of fred=フレッドのもの」という意味で、彼女は明確に誰かの所有物となっていることが示唆される。小説版では描かれない、指揮官の妻 セレーナとオブフレッドとのやりとりが、とてつもない緊張感である。こうなる前の世界では、おそらく対等であった関係が、いまや 服の色/立場 によって明確に分けられている。そしてセレーナが言う「夫は死がわかつまでわたしのもの」「わたしはやられたらやり返す」この言葉でわたしはちょっとおしっこをちびった。ここで面白いなと思うのは、晴れの日のような日差しが窓から入っているのに、窓には雨が降っているかのように水が流れていること。不穏である。

 

そして侍女たちの日々が映し出される。女中はパンを手作りし、そして「戦い」の目的は伝統的な価値観を取り戻すことだったと言われる。もうゾッとする世界である。(つまり、子供がいないならテクノロジーで人工授精とかあるじゃん、て思うかもしれないけど、あくまでも人間同士の性行為によって自然に産まれる子供が産まれなければならないという価値観のある世界であるってことが示唆されてるんだと思う)

 

侍女たちは2人がペアを組んで行動する。表向きは「お友達を作るため」だけれど実際のところは「相互監視」である。でた!ディストピアあるある!!相互監視/密告、そら恐ろしい世界である。(わたしなんかいつも無駄口ばかりだから絶対すぐ密告されて粛清されちゃう...) そしてこの世界はキリスト教原理主義の世界なので、侍女というシステムも聖書から引用されたシステムなんだよね....

 

小説版では全編がオブフレッドのモノローグであるけれども、ドラマ版で語られるオブフレッドのモノローグとオブフレッドを演じるエリザベス・モスの表情がすごく良い。彼女の表情の端々に、反抗的な態度や意地の悪さみたいなものが見え隠れする。小説版では娘のために耐えるけれども、ドラマ版では心の中で悪態つきまくりなのである。(pious little shit(経験なクソ女)だよ?!)すごいよね、なんていうかもうしょっぱなから、オブフレッドは体制に従順ではなく、わたしたちのように悪態もつけば、男と小粋な会話をしたいと欲する普通の女性であることがわかっちゃうんだもんね。ここでわたしはいっきにドラマ版のオブフレッドに好感を抱いたのだけど。

 

スーパーで顔を合わせた侍女たちの会話も恐ろしい。「あなたの家の指揮官は大物だってニュースで言ってた」と言ってからの気まずい表情、「何かで読んだわけじゃないから....」という言い訳そしてその表情。これだけで侍女たちは読むことを禁止され、読むという行為がどれだけの罰に値するか、わたしたちはうかがい知ることができる。

 

原作では描写があまりない「侍女養成所」での描写も恐ろしくよくできている。(養成所冒頭のシーンなんかそのまんまマッドマックスの冒頭じゃん...てなったよね...)リディア伯母なんかもう恐ろしすぎて、エミー賞の再放送みたときに壇上にいるアン・ダウド見て怯えたくらいですよ....(わりと厳しめの女子校育ちなのでこういう風紀委員の先生いたな...ってちょっと思ったりもしたけど) 養成所で使われるのは家畜を躾けるための棒状のスタンガンで、もはや侍女たちは人間ではなく管理されるべき動物なのであるということがうかがい知ることができる。そしてジャニーンね....もうさ....もうほんとここらへん辛いと同時に、自分だったら、自分だったらどうするんだろうって考えてしまう。(ちなみにわたしは口だけ達者な小心者なので絶対反抗とかできないしわりと従順に従ってしまいそう...こわい...) でも、レイプの体験を告白させられるジャニーンとそれを指差し「あなたが悪い!」と輪唱する侍女たちとかもさ...ほんと....普通の感覚だったらできないことをああやってやらされる中で服従心みたいなのを養わせるみたいなその手法がリアルで怖すぎではなかったでしょうか....

(じつは伯母たちの1人として原作者のマーガレット・アトウッドが出演しております。ちょっと笑っちゃった。)

 

あと間に挟まれる「こうなる前の世界」でのオブフレッドとモイラの描写も秀逸で(あっ、もしかしてこのドラマではモイラだけが名を奪われてないというか、オブ〜で呼ばれる名前をわたしたちが知らないキャラクターなのでは)マリファナ吸いながら、大学構内でのレイプについての講義について話をしてるんだけど、これって原作ではうかがい知れないモイラとオブフレッドが「こうなる前の世界ではどの立場にいた人間か」を明確にするためにものすごく有効で、大卒で、レズビアンの友人がいて、っていういわゆるリベラルで現代的な女性、つまりわたしたち(ていうかまあわたしですけど)とものすごく同じ境遇であるみたいなところで、グッと侍女たちと自分の距離が詰められるような気がしたんだよね。余計に他人事じゃない、っていう恐怖心が煽られるというか。

 

あとこれも原作になかった「粛清の儀」の描写、これほんとすごいっていうか、侍女たちも鬱憤がたまるじゃん、それを罪を犯した人を罰するという大義名分のもと、侍女たちの鬱憤を晴らすための場が提供されているという、さ、不満を募らせた侍女たちが一致団結して暴動など企てないようにする意図もあるんだろうと思うんだけど、ギレアドのやり口の巧妙さみたいなのが垣間見えるよね....

 

第1話の終わり、オブフレッドは自らの名をわたしたちに伝える。この物語は「名を奪われたオブフレッドの物語」ではなく、「ジューンの物語」となる。こういう端々で、原作では描かれない描写やメッセージを補填しつつも、さらにそこから進んだ物語を構築してみせる、これこそ「ドラマ化」のあるべき姿というかんじがしますね...つらいけど...

 

 

 

映画はあなたの写し鏡 「シェイプ・オブ・ウォーター」

f:id:watashidake:20180310174657j:image

これを書いてる今、わたしはものすごく困惑している。

なぜなら超話題で、みんなが絶賛していて、アカデミー賞もとっちゃって、もちろんわたしだって超期待していた映画「シェイプ・オブ・ウォーター」について、わたしは全くと言っていいほど心が動かなかったどころか、映画を見ている最中ずっと心が冷えていって、映画館を出てから友人に「わたしの心がシェイプ・オブ・コールドウォーターです」なんつってラインをしたほどなのだ。(正座してこれ書いてるけど膝が痛いので座布団をいただけますか?)

 

で、まあこの映画が大好きな人たちをクサすつもりも、コールドウォーター(座布団??)を浴びせるつもりもないんだけれど、批判するつもりもなくて、わたしは自分の「ダメだった」という意見を、ひとつの意見として書いておきたいと思うのである。わたしは自分の頭でこう考えた、という意味で。だからNo Offence!これを読んで嫌な気持ちになったらごめんなさい。

 

書き終わってここに立ち返ったけど、言いたいことをちゃんと言えてる気がしない。文章が下手。もうだめ。

 

この映画は、発話障害があり、パートタイムの夜勤掃除婦という、社会では透明になってしまいがちなキャラクターを主人公としていて、その友達には孤独なゲイの絵描き、そして遅刻ギリギリで職場に到着するエライザをいつも助けてくれ、半魚人救出作戦に力を貸してくれる同じ掃除婦として働く黒人女性が登場する。これらのキャラクターはビッグバジェット映画ではあまり用いられることのない弱者であり、実社会でも透明人間のようだとも言えるだろう。そういう黙殺されてしまいがちな人々が登場人物のほとんどである映画であるという意味でこの作品を評価されているという記事を読んだけれども、果たしてそうだろうか。

しかし、映画中に登場はしたが、彼らは物語の進行にとって、都合の良い使われ方だけをしてはいなかっただろうか。(少なくともわたしにはそう思えた)ゲイの友人、そして黒人女性は「マジカル・ゲイ」「マジカル・二グロ」としてしか機能していないのではないかとわたしは思う。

映画界には「弱者が描かれない」という批判も存在し、この映画はその問題点は弱者を主人公にすることによってクリアしていたと思う。しかし「描かれた弱者が物語にとって」ここでいえば、異性愛者の白人女性の物語を補助する役目だけではなかったか。正直、わたしにはゼルダとエライザの友情という関係性が、10年ペアを組んで掃除の仕事をしていること、そしてゼルダが毎日遅刻ギリギリでくるエライザのタイムカード押しの順番をとっていてあげたりすることを通してしかうかがい知ることができず、物語を推し進めるだけの装置としてしか機能していない。パートタイムで働く黒人女性や、ゲイのキャラクターを多く登場させ、そのことのみで「映画における多様性」という問題点に一定の評価をしてしまうことに、わたしは疑問を感じる。(これは言い過ぎかもしれないが、多様性を本当に意識して作られたのなら、エライザが黒人女性で、ゼルダが白人女性でないのはどうしてか?とも思うし。)

 先ほど、わたしはエライザを異性愛者と言ったけれども、わたしの中には彼女を異性愛者ということに躊躇がないわけではない。つまりこの映画の中では彼女の相手は半魚人なので、エライザが異性愛者であるかを断言することは難しい。しかし、劇中では半魚人にはペニスがあると話されていたし、そのセックスも異性愛的な"Sexual Intercourse"であることが示唆されていた。こう考えてみると、せっかく「異形なもの」との「真実の愛」が描かれたにもかかわらず、その愛が異性愛的性愛に結びついてしまったのも、すこしもったいない気がする。(とはいえ異形なものとの恋なのだから、異性愛的性愛ではないものが描かれるべきと主張したいわけではない。べつに異性愛的な物語だってあった方がいいに決まってる。けれども現在において異性愛的性愛の話はたくさんあるけれども、非異性愛的性愛以外のラブストーリーの数が圧倒的に少ないのもまた事実である。)

 

それと、かねてからわたしは「シェイプ・オブ・ウォーター」は「真実の愛」の話であると聞いていたのだけれども、これが愛の話なのであれば、愛というのはぞっとするほど身勝手な話だとわたしは思う。(あーでも愛って身勝手なもんだよね。)映画を見ている間中ずっと、わたしはカーソン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」のことを思い出していた。登場人物に発話障害がある点や、主に弱者が描かれるところなど、共通点もあるのではないかと思ったのだけれど、それよりもなによりも、「心は孤独な狩人」では、発話障害のあるシンガーという主人公に様々な社会的弱者たちが自分の心情をぶちまけ、そしてただ穏やかな顔をしてその話を聞くシンガーに対して皆が「彼は神のようだ」と彼の事を神格化していくのだけれど、シンガーはシンガーで自分の事だけを話し、相手は聞くだけという一方的にも思える関係の友人がいるのだ。わたしはこの本を読んだときに、人は誰しも物言わぬ(物理的にという意味ではなく)他者に自分を投影したがっていて、否定せずに自分を投影させてくれる人を愛し、神格化するけれども、結局それは自己愛でしかなくて、人は身勝手だし愛というのはなんて身勝手なんだろう。どこまでも一方通行でしかない。。。」みたいなことを思って、心から血が出ていまもそこが痛いんですけど、「シェイプ・オブ・ウォーター」における半魚人も、「心は孤独な狩人」におけるシンガーと同じ役割を担っていると思う。

エライザは「彼の眼を見るとき、彼はわたしを理解していると思う」と言っているけれども、実際には半魚人がエライザのなにを理解しているのか、はたまた彼女を愛しているのかというのはわたしたちには明かされない。たしかに「わたしと/あなたは/一緒」というけれども、その愛情のはぐくまれた理由が、あまりにも描かれないのである。これはすこし不気味ではあるまいか。エライザはもしかして、物言わぬ彼に自分自身の幻想を投影していたのかもしれず、物言わぬ彼が一体エライザに何を思っていたのか、それは計り知れないのである。

半魚人がもしかしたら向かい合う他者の願望を映し出すのではないかと思ったのはもうひとつ、薄毛に悩むジャイルズの髪を生やしてやるような描写があったことで、あそこはちょっとコミカルで笑ってしまったんだけれども、自らの願望を半魚人に投影したジャイルズは「彼は神じゃないか」とまた彼を神格化する。

この物語が真実の愛の物語なのであれば、やはり愛とは自らを他者に投影することにほかならず、いったいこの物語における半魚人とはなんだったのであろうかと考えてしまうのである。また、エライザと半魚人の関係性の構築の描き方もじつは、2人が心を通わせているような場面がうつされるのみで、わたしたちには二人の間に愛という共通の感情があるという、わたしたちの願望を投影させているのではないか。つまり半魚人に自らの欲望を投影するエライザに対し、わたしたちは、わたしたちの思う「愛」という欲望を投影することによって、自分の見たいものをこの映画に見ているのではないだろうか。(だからわたしも自分の見たいようにこの映画を見てこんなこと書いてるってこと!)

登場人物たちの動機や感情があまり明確にあらわされない映画であったように思うのだけれども、その中でやたらと描写が細かかった人物がひとりいた。その人こそが今作の悪役であるストリックランドである。彼は現代社会の権力の権化ともいえる人物だったけれども、その実、彼も「社会」という場所では弱者であった(とはいえ彼はそうは思っておらず、自らの権力を信じて自らの使命に邁進するのだけれど)という、この人物はものすごく現代社会における権力に対して批判的な目線で造形されたキャラクターである。だって彼は現代社会のなんというか、権力的マチズモに溢れているんだけれども、彼はそれを正しい、「まともである」として生きてきて、たったひとつのミスで上司からは「まともっていうのはミスをしない人の事いうんだぜ」と言われちゃうんだよ。悲しきかな中間管理職。ここらへんはすごく、意図的にマチズモ的権力批判になっていた。最近マチズモ的な価値観を壊していこうみたいな話が多いように思えるんだけど、この映画もマチズモの悲哀映画としては、よくできてたんじゃないかと思う。彼の言う「まとも」から外れるにつれて彼の失墜を表すように腐っていく指、そして「成功の証ですよ。あなたにこそこれがふさわしい!成功者です!」とおだてられて好きでもないと言っていたグリーンのキャデラックなんか買っちゃって(ティール!です!)しかもその車も、自分の失墜のきっかけとなる半魚人逃走計画の最中に盛大にぶつけられてたし。車=男根/男性性の象徴、なんて言ったりもするけど、ストリックランドにだけこういうメタフォリカルな描写が多かった。なんか弱者たちのバックグラウンドがあまりにも描かれないのに、ストリックランドだけ車や、家族や、ものすごく懇切丁寧に描写されてて、すごいアンバランスな不思議さがあった。ストリックランドに共感したという方のブログを読んだけれども、たしかにストリックランドだけがものすごく丁寧にキャラクターとして描写されていたので、そう感じる人がいてもおかしくないのではないか。

 

いいたいことがぐちゃぐちゃになってきちゃったけれども、なんというかこの映画は見る人によってものすごく投影するものが変わる映画なのかな、と思っていて、だから「水の形」というタイトルもすごいしっくりきていて。「水の形ってどんな形?」と言ったらおそらくみんな違う答えを返すように、この映画も見る人が見るものによって形を変える、まさに「シェイプ・オブ・ウォーター」というタイトルがふさわしい映画なのではないだろうか。そう思えばよい映画だったのかもしれない。

2018.1.1

f:id:watashidake:20180101191343j:image

2017年はわたしにとって大変に転機の年であった。転職をして、世の中には最悪じゃない職場があることを知った。こんなんなら、もっと早く転職すればよかったとも思うけれど、前職場が時々恋しくなったりすることもあって、すべてひっくるめて良い思い出になったのだと思う。いまでは前職場での7年間にも感謝しかない。いい経験ができたのだと。

2018年はどんな年になるだろう。今の職場で早く一人前になれるように頑張りたい。たくさん本を読みたい。

そういえば大好きだった映画も12月はほとんど見ていなくて、お酒もあまり飲みたくなくて、人生の中で好きだったことの2つが少し離れていくのかなと思ったりもする。少し寂しいけど、もしかしたらこれが成長するということなのかもしれない。これからわたしがどこに行くのか、何をするのか、ほんとうにわからないと思う。でもその不確かさみたいなのが、いまはすごくワクワクするので、2018年は決めつけずにやっていけたらいいな。いままで好きだったことをふとやらなくなってもいいし、いままでだったら絶対にやらないことを、突然やったっていいよね。わたしは誰にも決めつけられない、自分からも決めつけられないぞと思う。

去年はほんとうに、家族、お友達のみんなの応援が力になりました。たくさん愚痴をきいてもらって、たくさん励ましてもらって、そして嬉しい知らせに、すごく喜んでくれたみなさん、ほんとうにありがとうございました。わたしは本当にみんなのことが大好きです。石頭偏屈頑固と三拍子揃っているこんなわたくしですが、これからもどうぞよろしくお願いします。2018年がみなさまにとって、素晴らしい一年になりますように。

「ジュブナイル映画」における女性表象

f:id:watashidake:20171109190516j:imagef:id:watashidake:20171109190517j:image

わたしはスティーブン・キングが結構好きで、友達がいなかった小学生の頃には図書館に通いつめてひたすらスティーブン・キングを読んでいた。スティーブン・キングが別名で書いた『レギュレイターズ』なんかはすごく怖くて夜眠れなくなったほどだった。

もちろんキングの作品が映画化されると聞けば、毎度「がっかりするのかもしれない」と思いながら劇場に足を運んだし、中学生の頃には「IT」をはじめ「シャイニング」(これはキューブリック版もみたし、スティーブン・キングが本当に作りたかった版も見た)とかまあいろいろ見たのである。そして毎度がっかりしていたのだけれど。

この度、スティーブン・キングの「IT」が再度映画化されるときき、(またかもしれない...)と思いつつも、まあ懲りずにまっすぐな目をして劇場に行ったのだった。

最近Netflixでも話題の「ストレンジャーシングス」といい、この「IT」といい、「(元)ぼんくら小学生が憧れる僕らのグループに入ってくれるたった1人の女の子」という描写(ストレンジャーシングスでいえばイレヴン、「IT」でいえばビバリー)がわたしにとっては、正直困惑するところではある。当時(もしくはその作品がオマージュを捧げている時代)はそれでよくても、時は現代、ポストフェミニズム(なんだそれって思うけど)とも言われる頃である。そろそろ(元)ぼんくらさんたちも「僕らの憧れのヒロイン」思想から脱却してもいいんじゃないのかな、と思わなくもない。ときとして、その「僕らのヒロイン」の裏側には必ずミソジニーも潜んでいるものだから。

たとえば映画版「IT」(2017)では、女の子の登場人物は大きく2人しか出てこない。ひとりは僕らのヒロイン、ビバリーで、もうひとりはビバリーをいじめ、エディーのギプスに"LOSER"(負け犬)と書くいじめっ子の女の子だ。言ってしまえば、この映画には血の通った女の子は登場人物せず、それは「理想の女の子」か、(元)ぼんくらのミソジニーを反映した「意地悪な女の子」だけだ。ときは2017年....とため息をつきたくなる。(ここで言っておくと、わたしは「IT」(2017)をそういうものとしてすごく楽しく見たし、ペニーワイズもすっごくキュートでよかったと思っている。)

一方、ストレンジャーシングスでも、S1ではイレヴン、S2ではマックスがチームぼんくらに加入するけれども、どちらも「僕らのヒロイン」としてしか機能することはない。それに、S2でイレヴンが皆の前に再び姿を現したとき、イレヴンはマックスとは目も合わせず、会話もせず、無視をするのである。なんだろう、この手のストーリーでは「女の子同士が仲良くすると災いが起きる」というジンクスでもあるのだろうか?もちろんこれは、マックスがマイクと仲良さそうにしているのを見たイレヴンの嫉妬という理由付けがされているのだろう。でもまあこちらは「それにしてもさーーー!!」といった気持ちである。結局マックスはケイレブと仲良くなるんだしさ。(ドラマ自体はめっちゃ面白く見たんだけど、重箱の隅をつつく小姑体質なのですみませんね...)

そして「IT」のほうはといえば、やはりルーザーズクラブの中にいる女の子はビバリーひとりだけである。しかも、またビバリーの立ち位置というのは「少年たちの性的な眼差しの客体として」である。その点、例えば「スパイダーマン ホームカミング」ではヒロインのMJがヒロインとして(わかりやすい)性的な魅力を振りまくこともなく、一般的にいえばややダサいメガネとボサボサ頭なキャラクターだったことは、すごくよかったと思う。

そして、「IT」において、わたしが引っかかったのはその紅一点のプリンセスが、ペニーワイズに捉えられ、少年たちが救出に向かうという「囚われの姫」構造が繰り返されていたこと、また宙に浮かんだビバリーがキスによって目覚めるところなど、もしかしたらディズニープリンセスもののパロディなのかもしれないけれども、ちょっと直球すぎてびっくりするほどだった。

で、まあこういうジャンル物としての構造上の問題点はいまも継承されたままであって、これは今後こういうジャンル物において、もっと考えていく必要はあるんじゃないかなと思うのである。ティーンになる前の女に子たちの冒険譚だってあってよくない???もうすでにあったらごめんなさいですけど、あんま見なくない????せめて男女混合(非紅一点もの)があってもよくない???(て前にもマグにフィセントセブンでも同じようなこと言ったから、誤解されそうだけど、別に男女同数だったらいいとか、女の子だけだったらいいとかそういう話ではないので、わかってくださいね)


話は脱線して、それでも「IT」(2017)は毒親(エディの母: 息子が自分から離れるのを恐れるあまり息子の病気をでっちあげる/ビバリーの父: 娘に性的虐待をしていそうな完全にヤバい父)をうまく描いていたと思うし、ド田舎のものすごい閉塞感とそこから発生する暴力(のメタファーがピエロのペニーワイズでもあるんじゃないかな)を原作で描かれていたようにうまく表してたと思う。(しかしいまだこのピエロの口もヴァギナ・デンタータのモチーフだったしさ、そろそろモンスターの造形が歯の生えたヴァギナを模してるみたいなのも見飽きないですか....そんなにヴァギナが怖いかよ...?)

それであれです、わたしが一番言いたかったの、あのビバリーの洗面所のシーンなんだけど、ルーザーズクラブの面々の中で実際「血」に関するものを見せられるのはビバリーだけなんだよね。あれって、薬局のシーンで生理用品を買ってたことからも、あの血塗れのバスルームは、ビバリーの大人になりつつある自分への成長への恐怖みたいなものを表してるんだと思う。つまり生理のメタファーというか。それをルーザーズクラブのみんなが手伝って掃除してたのは、なかなか象徴的でよかったかな、と思いました。

いろいろ言ったけど、キング原作ものの映画としては珍しくよくできてたし、続編に期待しております!

 

映画「ワンダーウーマン」はフェミニズム映画であったか?

f:id:watashidake:20170828175937j:image

DCの新作ヒーロー映画「ワンダーウーマン」は、映画そのものについてもフェミニズム的にとても評価されているという噂を聞いていたし、それに伴って(主演女優がフェミニズムのアイコンとされることについて)主演女優の政治的思想について批判が高まるなどしていた。本作日本での公開が遅かったので作品として良い前評判ばかり耳にして、わたしの期待はぐんぐん上がっていた。ヒーロー映画meetsフェミニズムなんて最高じゃないか。もしかしたらマッドマックスより夢中になるのかもしれない...と、ものすごく期待していた。

そしてようやく今週末日本で公開されたわけだけれども、正直わたしはなぜこの映画が「フェミニズム的である」と賞賛されるのかがわからなかったし、この映画に出演し、ワンダーウーマンを演じたことによってガル・ガドットがフェミニズムアイコンに祭り上げられることもまったく理解できなかった。(そもそもフェミニズムアイコンであるキャラクターを演じただけでその女優がフェミニズムアイコンになってしまうようなフェミニズムなんてフェミニズムではないと思うが)

たしかに女性監督がヒーロー映画を撮る、しかも、女性ヒーローの映画を!とそれはたしかにフェミニズム(というよりも女性の社会進出であるから)画期的なことだし、これからもっと女性監督が女性ヒーローの映画を撮るべきだ。まだまだ女性ヒーローの作品は少なすぎる。しかし、「ワンダーウーマン」はそれだけではなかっただろうか。わたしはこの作品(ストーリーや設定)のどこにフェミニズムを見出せば良いのか、わからなかったのである。率直に言ってしまえば、「ワンダーウーマン」をフェミニズム映画であると言い切ってしまうことには大きな疑問を感じるのである。

(ここで注記を入れておくが、わたしは映画「ワンダーウーマン」を楽しく見たし、つまらなかったとは思わない。いろんな人に見てもらいたいし、映画としては楽しかったと思っている。)

1) セミスキラでの様子
たしかに、かっこいい戦闘衣装をきたかっこいい女性たちだけの島で、彼女たちが戦闘訓練をしているシーンなんかもうすごく興奮した!こういう映画が見たかったんだ!!と思うほどだった。なんならあの島の様子をスピンオフで2時間映画にしてもらって...と思うのだ。

しかし人間の間の争いを止めるために作り出されたアマゾン族たちが、その隷属を嫌い住んだ場所は、彼女たちが平和に暮らすために神によって「隠された」場所だった。そして彼女たちは「外へ出ること」ではなく「霧の中の楽園に」隠れていることを選んだ。劇中で、あの島から出たアマゾン族はダイアナだけであった。

設定上仕方のないことかもしれないが、島に1人だけの子供であるダイアナと他のアマゾン族たちとの絆みたいなものもあまりうまく描かれていなかったのではないかと思う。結局、アンティオペのもとで戦闘の訓練をして、いくら腕を上げたとしても、ダイアナは女王の娘であり、母親は娘が外に出ることを「悲しみ」と表現する。ダイアナという存在は、あの島の中では疎外感があったように思う。

アンティオペとは師弟関係があったのかもしれないが、最後の訓練のシーンでダイアナがアンティオペを傷つけてしまったとき、アンティオペはダイアナを拒絶するような言動をとっていたように思える。フェミニズム的な要素を入れるのならば、もうすこしシスターフッドのようなものが描かれてもよかったのではないだろうか。

(最近では「モアナ」において、テ・フィティの心を取り返す旅に出ようとするモアナに対して反対するのは父だけで、祖母は彼女の旅への意志を応援し、母もその旅立ちに反対していなかったことが、女系家族的な文脈でもとても良いなと思ったので)

2) 旅の仲間たち
ダイアナがセミスキラを出てからスティーブをはじめとする仲間たちができるわけだが、これ以降主要な役で出てくる女性は3人(ダイアナ/スティーブの秘書のエッタ/マル博士)のみである。

しかも、秘書のエッタは劇中、わりと活躍している様子(ロンドンで情報基地局としての役割をきちんと果たしていそうだったし、スティーブとダイアナがドイツの暗殺者たちに囲まれたときも異変を察知してスティーブたちの後を追っていることから)なのだが、出番がとても少ない。ほんとうに「いち秘書」といった役割で、ダイアナの旅の仲間たち(ダイアナと男性4人)よりは格下の扱いである。

また時代考証上仕方なかったのかもしれないが(とはいえワンダーウーマンというそもそも架空の人物を扱っているのだから)旅の仲間たちに1人くらい女性がいてもよかったのではないかなどとも思ったりした。ここでもシスターフッドのような友情や、同じ女性との交流は特に描かれない。(し、女性が村人とかくらいしかでてこない)

映画全体では余裕でベクデルテストをクリアするが、設定上女性しかでてこないセミスキラでの場面を除いてしまえば、ベクデルテストもギリギリクリアというようなかんじでは、わたしは寂しい気持ちがしてしまうのだ。


そんなわけでわたしは特にワンダーウーマンフェミニズム映画であったとは思わない。たしかにワンダーウーマンという女性ヒーロー映画が作られたこと、そしてそれがとても出来の良い娯楽先品であったことは素直に認めるけれども、あれをフェミニズム映画である、ガル・ガドット演じるワンダーウーマンフェミニズムアイコンであると言われると、わたしはそこには同意ができない。

もともとワンダーウーマンというキャラクター自体がフェミニズムアイコンとして作り出されたものである。だとするとあの程度で映画「ワンダーウーマン」をフェミニズム映画として手放しで称賛してしまうのは、あまりにも甘すぎるのではないだろうか。

たしかに、やっと、ここまできて、女性監督による、女性スーパーヒーローものの映画が作られたこと、それはとても喜ばしいことだ。そして、この映画をみて勇気付けられる女の子たちはたくさんいるだろう。そういう意味では、この映画の存在価値は大きなものだ。そしてこれを皮切りに、もっともっと女性監督がたくさんの映画を作るようになってほしいし、女性ヒーローものの映画も作られてほしい。まだまだ進むべき道は長いのだろう。

しかし、この映画の存在意義とは別に、この映画がフェミニズム映画であるかどうかについては、いちど冷静に考えてみる必要があると思う。

・追記
主演女優の政治的思想について批判が多く出ているし、わたし個人もその政治的思想には賛同できない。しかし、主演女優がそのような政治的思想を持って、平和を守る女性スーパーヒーローを演じたということを意識してスクリーンを見たとき、スーパーヒーローたちの抱える自己矛盾が浮かび上がってくるような気がした。

またジェイムズ・キャメロンパティ・ジェンキンスのビーフ合戦については、なんていうかどっちもどっち...とわたしは思っている。

ジェイムズ・キャメロンの発言は女性ヒーローの多様性を妨げるものである(実際に男性ヒーローなんかは、正統派ヒーローからアンチヒーローまでものすごい多様性に富んでるのにね!)と思うし、一方パティ・ジェンキンスの「キャメロンは男性だからワンダーウーマンが女性にとってどんな意味を持つかわからないんでしょう」という発言は性差別的なのでは(男性だから女性のことがわからないわけでもなく、女性だけが真の女性映画を作れるわけでもないでしょ)と思う次第であった。

 

・追記2

女性監督による女性主人公の映画が少ないために、エンパワメントの可能性があるものですらその母数の少なさから完璧さを求められてしまうのではないかという意見もあるけれども、それなら「じゃあ女性監督が作った女性主人公モノの映画だから、出来は良くないけど、良かったとしか言えない。エンパワメントという存在意義があるから、内容の批判はでしない/できない」方が問題じゃない?わたしは男性監督が「ワンダーウーマン」をこの内容で作っていたとしても、同じブログ記事を書いたと思うし、男性監督が作った男性主人公の映画についても、同じように(内容に難があるとか)批判するよね。それと同じような定義を当てはめることができないならそれはそれで、作品批評として問題では...

理論と実践の狭間で-バッド・フェミニストによせて-

f:id:watashidake:20170704214848j:image

理論と実践の間には、少なくともわたしのいるこの場所から見ると、乗り越えれない深い断絶があるように思える。

わたしはよく、こんな記事を目にする。「ジジイに媚びるのは処世術じゃない!」「若い女性はジジイに媚びるべきでない!」「女だからってさせられるお茶汲みやお酌にはNoと言おう!」

なんだか、日本にもようやくフェミニズム、というか性差別を是正しようという流れがやってきたのかな、と少し嬉しくなる。それでも、わたしはそのような記事を読むたびに、なんども傷ついている。

もちろん、媚びること、お酌をすること、職場で「物事を円滑にすすめるために」笑顔を見せること、それがどれだけよくないことか、理論上は、よくわかっている。それらの「媚びをなくそう」と女性に呼びかける記事は、とても正しい。なぜなら理論上は、「女性だから笑顔でいなよ」と言われてた見せる笑顔は間違っているし、女性だからと(非言語下でも)強要されるお酌もお茶汲みも、職場で物事を円滑にすすめるために年上の男性に媚びることも、間違っている。わたしたちはもっと性差別的に押し付けられる振る舞いから自由になるべきだ。

けれども、わたしが住んでいるこちら側は、笑顔を見せなければ、「可愛げもない」と影口をいわれ、お酌をしなければ「お高くとまって感じが悪い」と言われ、媚びなければ仕事が円滑にすすまない世の中だ。波風立てずに仕事をしていきたいなら、笑顔を見せて適度に媚びなくてはいけないのだ。これがわたしの住むところの実践だ。

率直に言ってしまえば、仕事が円滑にすすむなら、媚のひとつやふたつ、お安い御用だとわたしは思っている。お酌で仕事がスムーズにすすむなら、それも仕方がないと思ってしまう自分がいる。

わたしにだって媚びずに、笑いたいときしか笑顔を見せずに、お酌やお茶汲みなどわたしの仕事ではないと言い切って生きていきたい。でもそれを実践したとき、「なんて女だ」と言われ、それをやったことで苦労するのは、ほかでもないわたし自身だ。

媚びるな、という記事は、わたしが媚びをやめたことによって、わたし自身が背負い込むであろう苦労を、汲んでくれているのだろうか。わたしの世界の実践は、わたしが理想とする理論とは、あまりにもかけ離れている。抑圧されている人に理論をふりかざして「こうすべき」というのは簡単だけれど、そこで悪いと指摘されるべきなのは抑圧されている者なのだろうか。わたしにはわからない。どうかすると、それらの記事を書いているライターの方たちの住んでいる進歩的な世界と、わたしが住んでいるまだまだ昭和のような世界が、同じ国での出来事だと思えなくなる。

もちろんわたしの中にもフェミニストはいる。そしてわたしは、物事を円滑にすすめるために笑顔を見せ、お茶汲みをし、お酌をするたびに、彼女を、わたしの中のフェミニストを、ぶん殴っているような気持ちになるのだ。いまではわたしの中のフェミニストは、小さくなってしまっているし、あざだらけでボロボロだ。

毎日毎日、フェミニストとしての理想を裏切るようなことをしないと、わたしはこの社会で生きていけない。少なくとも円滑に社会生活を進めるためには、フェミニストである自分自身を裏切らなくてはいけないことがなんどもでてくる。だから、わたしはわたしが生活しているこの社会で、フェミニストであることは、悲しいほど難しいことだと感じている。

フェミニストである」ために正しいとされる理論と「実際に社会で生きていくこと」という実践の間には、深い断絶があって、わたしはその断絶の中で毎日苦しんでいる。

だから、わたしにとってロクサーヌ・ゲイの「バッド・フェミニスト」は、ただピンクが好きだとか、女性蔑視的な音楽を聴いてしまうだとか、趣味趣向だけの問題ではない、もっと大きい救いだった。「バッド・フェミニスト」は理論と実践の間にある、深すぎるほどの断絶に、少しだけ橋をかけてくれたような気がしたのだ。

わたしがいるところからすれば、フェミニストを自称する必要など全くないなんてことはありえない。むしろわたしは、この世界で、正々堂々としたフェミニストでいることは、なんと難しいんだろうと考えている。

 

・最近の媚びるな案件「おっさんへの“媚び”に得はなし」働き女子が30歳までに知っておくべきこと|ウートピ

この記事は、セクシュアルハラスメントに耐えてしまうことと媚びを混同しているような気がする。セクハラに耐えることは媚びではないし、あからさまな下心を持って近づいてくる年上の男性と、経験の豊富な(マンスプレイン)男性にときめいてしまうこと、それに警鐘を鳴らすことは大切だ。セクハラにはNOと言うべきだし、若い女性に下心を持って近づいてくる年上の男性なんておおよそろくでもない。そこには同意する。

けれども「媚び」という言葉には非常に多くの日常的行動が含有されてしまうから、言葉を生業にしている人々の対談としては、言葉のチョイスが大雑把なのではないか。

個人的には「セクハラに耐えること」「下心を持って近づいてくる年上の男性に毅然とした態度をとること」と「媚びるな」ということは相容れないことではないかと思う。

 

追記: 自分が性差別的な業務をやっていないからといって、「媚びはやめよう」と言ってしまうのはそれこそどうなのかな?別の女性がその仕事をやらされてないかとか、自分が媚びる必要がないのなら他に目を配れるところがあるよね?それがフェミニズムじゃないのかな?自分がやってないからいいって、それじゃ「媚びるな」って書いてるその記事と同じなんじゃないのかな...違うのかな...