#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

翻訳: ロクサーヌ・ゲイ 「絶望の大胆さ」

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アメリカ大統領選でトランプが次期大統領となったことについて、ロクサーヌ・ゲイがNY Timesにエッセイを寄稿しました。その翻訳を掲載します。

 

原文はこちらから

NY Times

"The Audacity of Hopelessness - NYTimes.com" Roxane Gay

 

<翻訳>

ロクサーヌ・ゲイ 「絶望の大胆さ」

 

当期の選挙運動期間中、わたしはヒラリー・クリントンの勝利を確信していました。ヒラリーこそ、大統領にふさわしい資格があり、とても力強いキャンペーンを行っていたからです。選挙結果が入ってくるにつれて、わたしは呆然としました。わたしには確信がありました。それは、ヒラリー・クリントンヒラリー・クリントンであるからではなく、人種差別主義者、外国人恐怖症、ミソジニスト、ホモフォビアのアメリカ国民よりも、進歩や平等の存在を信じているアメリカ国民のほうが多いのだと考えていたからです。これは一般化ですが、でもそうとしか考えられないのです。

 

評論家たちが、投票日にトランプ氏が成し遂げたことについて文脈づけをしようとし、トランプ氏の成功には、脱産業化の現実が大きく関係していると話すのを見ているとき、どうして「経済不安」がこの出来事に大きく関わっているかがわりました。仕事の減少に直面した労働者階級の家族たちは、ワシントンに本当の大きな変化を求めました。彼らは政治的「アウトサイダー」が、見返りにより収入の良い仕事を取り戻してくれることを、願っていたのでしょう。わたしはこの願いを理解することができます。わたしだって、アメリカ経済がすべての人にとって繁栄するところを見たい。けれども、トランプ氏が経済を再活性化してくれるとは、わたしには思えないのです。

 

今夜起きたことのより大きな意味、それは、たくさんの、本当にたくさんのアメリカ国民が、クラン(KKK)によって支援された候補に投票することを望んだということです。彼らは、おおっぴらに女性蔑視を表明した候補に投票したいと望んだということです。彼らは、公に有色人種、移民、そしてムスリムを敵視することを基盤とする候補に投票することを望んだということです。わたしたちは、トランプ氏が、溢れ出すことを賞賛し、許してしまったこの憎しみを無視することはできません。トランプ氏の基盤のさらなる敵意が、彼の当選を、憎しみを行動に移していいのだという許可として捉えてしまうことを恐れています。

 

月曜の夜、わたしは期待に満ちあふれ、興奮していました。11月8日は、素晴らしい1日になるだろうと思っていました。44人の男性が使った大統領の執務室に、ついに女性の大統領が入室するところを見るのだと思っていました。もっとも高いガラスの天井に、ついにヒビが入ることを見る、そのことはわたしにとってとても大きな意味を持っていたのです。果たしてわたしが生きている間に、果たして女性の大統領を見ることがあるのだろうかと、いま考えています。

 

いま、絶望を感じています。どうしようもないほど、がっかりしています。でもわたしは、長いあいだ、この気持ちに溺れていることはできません。絶対にそんなことはしない。トランプ大統領のせいで、世界が終わることはないでしょう。明日、陽は昇ります。明日は、わたしが想像していたよりも、喜びのずっと少ない世界になるかもしれません。でもわたしは乗り越える。わたしたちみんな、乗り越えるのです。

 

しかし、わたしたちの中でもっとも弱い者たちが、いまやさらに弱い存在となってしまうでしょう。なぜなら、共和党が多くを占める議会によって、行政権への監視も、対抗勢力も、いまやほとんど無いに等しいからです。

 

わたしたちは、ここからいったいどこに向かうのでしょうか?これからしばらく、これこそがわたしたちの多くが答えを見出そうとする質問となるでしょう。とりあえず、いちど深呼吸をして、背筋を伸ばして立ち、そしてできるだけ、この新しい現実に慣れることです。わたしたちは、書くこと、プロテストを行うこと、2018年と2020年に投票を行うことで、わたしたちの政府に欠けた監視と、対抗勢力になる必要があります。そうすることによって、わたしたちのなかでもっとも弱い者たちを守れるように。アメリカ国民が長い間、理想として掲げてきた、さらに完璧に近い融合を、保持することができるように。これから、どんな戦いになるか、わたしにはわからない。けれども、わたしたちはこれから、さらに戦わなくてはならないのです。

MY BIRTHDAY MANIFESTO

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11月10日はわたしの誕生日で、特に予定もないのでちまちまブログを書いている。(うそ、いまは仕事中)今年こそは、30歳になる前に、他人の手によってではなく、自分の力で、自分を救ってあげたいと思う。

フェミニズムに興味があって、そういう本も読んだりして、発信の真似事なんかもしたりして、偉そうなこと言ってるけど、でも結局そういうものに囚われて苦しいのは紛れもなくわたし自身だった。いくら本を読んでも、発信しても、救われない気持ちがどこかにあって、読めば読むほど、考えれば考えるほど、なんか深い穴に落ちていくような気もしていた。それはたぶん錯覚なんだけど。

どうやっても報われない、愛されない、好かれない、みたいな気持ちがわたしにはある。単に承認欲求が満たされてないだけかもしれないけど。別に今でも幸せなはずなのに、どうしてもわたしは不幸だと思ってしまうのは、たぶんわたしの中にこびりついているそういう気持ちが、自分を不幸だと思わせるんだと思う。なんか報われない。空っぽな部分だけがどうしても目についてしまう。

自由にやりたい、もっとみんな自由にやろうと口では言ってても、わたしは恐ろしいほどにルールを重んじている。「女なんだからこうするべき」「社会人なのだからこうするべき」「大人なんだからこうするべき」といういくつもの「べき」がわたしの中には確かに存在していて、そこから逸脱して楽しそうな、幸せそうな人をみると、自分だけが割を食っているような気がして、妬ましくもなった。

でもこういうことって、結局は自分で自分に課している「べき」でしかないのだと思う。わたしは自分で自分を縛っているから、そこから自力で逃げ出さないともう永久に幸せだと感じることはないんだと思う。

だから今年は、自分で自分を大切にして、こうするべき、という義務からどんどん逃げ出したい。

こうしなきゃ大人じゃない、こうしなきゃ社会人じゃない、こうしなきゃ愛されない、そんな風に思ってしまう自分を少しでも救ってあげたい。

わたしは無知だし、傲慢で、恥ずかしいところもいっぱいある。不出来すぎるほど不出来だと思う。だけど、そういう部分を隠さないで、見栄を張らずに、もっと素直になりたいと思う。

素直になるということは、知らないことを知らないと言い、教えて欲しいことをこっそりググらずに目の前の人に教えを請い、素敵だなと思ったことは素敵だなと表明し、わたしもその素敵なことを真似したいと打ち明けることでもある。

だからたぶん、今年はこっぱずかしい部分丸出しのわたしがお目見えするかと思います。でもこれからも、どうぞよろしくお願いします。

パーソナルなことを書いたら、なんだか暗いかんじになってしまったけど、まあ考えてみれば毎日能天気に暮らしてて、わたしは幸せなんだよね。あとはわたしが、わたしをなんとかしてあげなくては。ということが言いたかった。

ところで、せっかくの誕生日なので、わたしのガチ恋枠の推しの最高のGIFを、自分のためにここに貼っときます。わたし、誕生日おめでとう。

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わたしたちとお化粧-チママンダの語るお化粧とは?

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わたしとお化粧の関係は、案外に複雑だ。毎日会社にいくために、朝起きると化粧をするけれども、それが楽しいかというと楽しくはないし、やらずに済むならやりたくないというかんじだ。お化粧品に詳しくないから、というのもあるかもしれないけれど、なんだかうまくできない気もして、あまり好きではない。もちろん、お化粧が好きという人を否定するつもりはさらさらなくて、わたしはいつその「お化粧を好きになる」好機を逃してしまったんだろう...と思う。

会社に化粧をしていくのは、なんとなくそういう風になっているからで、会社の人に「化粧もしない女だ」と周りの人から、言われたくないという気持ちが多いのかもしれない。化粧しないなんて、ダメだという暗黙の了解みたいなものをいつの間にか内面化しているのかもしれない。

お化粧が大好きな人も、お化粧が苦手な人もいていいと思う。でもそれが、「こうすべき」となってしまうのは、あまり歓迎できないことだ。お化粧やら恋やら、そういうものは、趣味みたいになればいいと思う。本を読んだり、読まなかったり、スポーツをしたり、スポーツをしなかったりするのと同じように、お化粧をするも、しないも、その人の好き。恋をしたり、しなかったりも、その人の好きになればいい。

この前、電車の中でのお化粧をめぐって騒動があった。その反応を見ていると、やっぱり「お化粧とわたし」というのは、一筋縄ではいかない、いろんな関係があるのだなと思った。

先日、化粧品ブランドBootsのNo7ラインの宣伝に登場した小説家 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが、同ブランドの企画で「わたしとお化粧」について語る動画が先日公開された。
「男の人が好きで、リップグロスが好きで、ハイヒールを男の人のためじゃなく、自分のためにはく、ハッピーアフリカンフェミニスト」を自称するチママンダは、お化粧について、どう考えているのだろうか?

ラウンドテーブルのディスカッション形式で行われた対談を、抜粋、翻訳してみたので、ぜひお読みいただければと思う。(誤訳、その他何か問題があれば教えてください)

フルバージョンの対談動画はこちらからどうぞ。

https://youtu.be/YJL4REziTvE

 

ーメイクのようなものに夢中になるのは、女性として真面目ではないのではないかと思いますか?
わたしはナイジェリアで育ったので、文化が少し違うのだと思います。もしナイジェリアの真面目で知的な女性なら、一般的にですが、あなたがメイクをしたり、おしゃれをしていることで、辛辣に判断されることはありません。文化的に、外見には気を使うべきであるという期待があるのです。ラゴスは世界で最もスタイリッシュな街だとわたしはよく言うのですが、ほとんどお金なんか持っていない女性たちでも、ものすごくきれいに着飾っているんです。
大学に通うためにアメリカに行ってはじめて、真面目な女性であることと、お化粧をしたり、ハイヒールを履いたりすること、ある程度の時間、鏡を見て時間を過ごしたように見えることには大きな関係性があるのだと気付いたんです。もしかしたら、ここの人たちは、作家が集まるカンファレンスで、わたしが真っ赤な口紅を取り出したりしたら、わたしのことを真剣に扱ってくれないかもしれないと思ったんです。だから、メイクをしないほうがいいと思って。実際、故意にメイクをやめたんですよね。


ー何歳ごろのことですか?
20代前半の頃ですね。その頃には、わたしの本がナイジェリアで出版されていて、短編を書いたり、小説を書きはじめたころです。そんな期間に、作家が集まるカンファレンスとか、そういったものにいきはじめたんです。作家たちが集まる場所で、周りを見渡してみたとき、メイクはしないほうがいいなと思ったんです。口紅を手にして会場に行くけれど、うーん、今日は口紅つけるのはやめとこっと、というかんじ。

 

ー実際に現地で口紅を落としたんですか?
というよりも、前日に作家の集まるカンファレンスに行って、それでなんとなくお化粧をする気がなくなっちゃう。それで、ヒールがなくて、分別のある、まじめな靴を履いて、メイクはしない。メイクをするとしたら、ほんの少しだけ。ほんのちょっと眉毛を描いたり。眉毛をほんのちょこっとだけね!
でもわたしは、そんな風には育ってこなかったんです。それが問題でした。わたしの母は、とても素敵な化粧机を持っていました。わたしはその横で、母が身支度するのを眺めたりして過ごしていました。母は、素晴らしく洗練された女性でした。ナイジェリア大学ではじめて女性のレジストラになった人です。それでも彼女は、毎朝メイクをしていました。毎日の日課のようなものだったんです。母が化粧水をつけるのをみたりして。母は化粧水にとても熱心でした。背中にまで化粧水をはたきつけるんですが、そういうものを見ながら育ちました。幼いころに母のリップグロスで遊んでいたのを覚えています。とてもベタベタして、キラキラしたものでした。母はわたしの髪の毛を結んでくれたり、時にはアクセサリーをつけさせてくれました。だからわたしは、いつも自分の見かけに気をくばるようにと育ってきたんです。母は、わたしや姉妹、兄弟たちにこう言っていました。一緒にいる人を敬うような格好をしなさい、と。だから、お客さんが来るときには、きちんとした格好をする。自分の外見に気をくばることはマナーであると。
そんな風に育ってきたのに、途中で違うものにならなくてはいけなかった。きちんと受け止められることは、わたしにとってとても重要なことでした。若くて、黒人の女性であることは、わたしにとって乗り越えるべきことであり、きちんと受け止められることによって、それを達成しようとしていたんです。

 

(続く他の方のお話は省略します。気になる方はぜひ動画をご覧ください)

 

ーとても面白いことだと思うんですが、いまメイクを通じて別の人になるという話が出ましたが、あなたはメイクをしないことで別人になろうとしていたんですよね。どれくらいメイクをしない期間があったんですか?
アメリカからナイジェリアに戻ったときに、また別の問題にぶつかったんです。メイクをしないことで、子供のように見られてしまう。22歳だったと思うのですが、12歳くらいに見えたんですね。そして、あることにも気付きました。メイクをしないことで、ある種の男性から、簡単に否定されるようになるんです。子供は意見なんかないだろう、あっちにいって座ってろ、というようなかんじで。
だからナイジェリアに戻ってから、メイクをするようになりました。メイクをすることで、わたしは大人に見られますから。そしてアメリカに戻ると、メイクをやめました。作家として、まじめに受け取られたかったからです。こういうナンセンスには、実例を示すこと、とにかく実績を残すことです。
そして、周りに示すこと。誰かが口紅をつけているからって、その人が知的でないなんて、誰にも言えないんですから。そうすれば「これがわたしの実績よ」と言えるでしょう。

 

(中略)

 

つい先日、ニューヨーク行きの電車に乗っていたときのことです。ニューヨークから2時間ほどの場所に住んでいたのですが、わたしは朝型の人間ではないので、電車に乗って、ニューヨークにつくまでに、メイクを済ませようと思ったんです。メイク道具を出して、ファンデーションを塗っていると、わたしの横に座っていた年配の白人男性が、なんとなく身を硬くする気配がしたんです。軽蔑するような、わたしのことを見下すような雰囲気がわたしの方に漂ってきました。わたしは、2秒ほど、メイク道具をバッグの中にしまおうかという気持ちになりました。すると自分の中の、激しい部分が顔を出してきて、「あら、すみませんね」というかんじで。次の瞬間、すべてのメイク道具を、アイライナーに、口紅に、と並べて出して、「よっしゃ、やるぞ!」と。ハイライトによし、ブラシよし!と。いい明かりが欲しかったので、その男性の方に近づいたりもして!笑

 

ーその男性にもメイクをしてあげた?
しなかった!「あなたに似合うお色がありますよ!」って?笑 でも、あのときどうして2秒の間、メイク道具を隠したいと思ったんだろうと考えるんです。

 

(中略)

 

わたしのブックイベントにきた人に、「その口紅はどこの?」って聞かれるのが、いちばん楽しいことなんです!それを聞かれると「やった!!やった!!」って思う。それこそが、いちばん重要な質問なんです。

申京淑「母をお願い」

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お母さんっていうのは、なんとも不思議な存在だ。わたしにとって母は母しかいなくて、でもひょっとするとわたしは母の、わたしの母であるところしか知らないのかなと思う。

唐突に母が語り出した、母の幼少期の辛い話や、哀しい話を、そんな話聞きたくないと思ってしまったりもする。そんな時のわたしの不機嫌な表情は、母の、わたしの母であることから抜け出してひとりの人間であろうとする部分を、傷つけてしまっているのかもしれない。わたしは傲慢で、気が短くて、不出来な娘だ。わたしは、いつでも、母はそこにいると思ってしまうけれど、そんなことはない。

申京淑の「母をお願い」は、あるとき行方がわからなくなってしまった母を探すある家族の物語である。家族ひとりひとりの独白、そしてある女性の口から語られる「オンマ」の姿は、ひとりの女性であったけれど、母として、妻として、という、そんな役割に埋もれてしまった女性の物語にも思える。オンマは幸せだっただろう。でもわたしはそのオンマの幸せの向こうに、どうしようもなく深い哀しみを感じる。

そして何よりも、いなくなってしまったオンマに対する尽きることのない「ああしてあげれば」「あのときこうしてあげれば」という家族の告白が、そしていなくなるまで知らなかったオンマの姿が、わたしの母に重なっていき、実はわたしは母のことを「母として」しか知らないのだと思って、涙が出た。わたしに残された時間は少ない。

「愛せるときに愛せよ」という扉の引用が、こんなにも深く深く心に突き刺さって、いつの間にか、そこにあるのが当たり前だと思ってしまう母のことを、女性として、人間として、そして改めて母として、もういちど見つめたいと思った。

ヘレン・マクドナルド『オはオオタカのオ』

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人は近しい何かを喪失したとき、自然へと向かうのかもしれない。

たとえば、シェリル・ストレイドは『ワイルド』の中で、母の死をきっかけにPCTトレイルの1600キロ踏破にチャレンジする。自然の中へたったひとりで、自分と向き合うために。

ヘレン・マクドナルドも、最愛の父の死をきっかけに、オオタカのメイベルを飼い始める。本書では、ヘレンが自分と向き合うのは、作家 T.H.ホワイトを通して、鷹を通してである。

目まぐるしく、オオタカには様々なイメージが照らし出される。飼い慣らされることのない野生、自由、生、死、戦争、自然、歴史、そしてヘレン自身までもが、オオタカへと重なっていく。

そして、同じようにオオタカに魅せられたT.H.ホワイトの、暗く、苦しい生涯に、ヘレン自身の苦しみが重なっていく。

次々に投影されるイメージ、次々にオオタカに付与されていく意味、それらが何重にも重なっていく。その層の中には、果てしない思索、内省の魅力が詰まっていた。そしてその思索は、紛うことなく、生につながっていき、愛する人の死にも向き合うことができるのである。

ガーターベルトとガールパワーとゾンビ ー映画版「高慢と偏見とゾンビ」

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じつはあまり期待してなかった映画版「高慢と偏見とゾンビ」なのだけどこれがもう最高のガールパワー映画だった。セス・グレアム・スミスの「高慢と偏見とゾンビ」を読んだ時にイマイチピンとこなかった、オースティン版の「高慢と偏見」で描かれている結婚騒動への風刺が、まさか映画版でこんなにピリッと効いているとは、夢にも思わなかったのである。つまり映画版最高。


高慢と偏見」という古典原作と「ゾンビ」の食い合わせに引いてしまう人も多いのかもしれないけれども、これはめちゃくちゃ真摯に作られたガールパワー映画だと思いますよわたしは!!みんな!映画館に今すぐ向かって!!!(残念ながら公開2週目にしてほとんど公開終了という憂き目に....)

 

(以下ネタバレがあります)

 

・娘たちよ戦士たれ
ベネット家の娘たちはみな、武士としてのトレーニングを受けて育っている。娘たちにトレーニングを受けさせ、戦士として育てるというのは父親の意志だろう。映画が始まってすぐに父親のベネット氏は娘たちのことを"Our warrior daughters"(わたしの戦う娘たち)と呼ぶ。そう、この映画では、娘たちはただのステレオタイプ的な娘たちではないことがはっきりと示されるのである。

そして退屈で軽薄な(けれど悪気はない)な牧師コリンズが、リズにプロポーズし、それを断ったことに激怒する母親を尻目に、ベネット氏はこう言う。「不幸な選択がある。結婚しなければ、母親はもう二度と口をきいてくれないそうだ。けれども、コリンズと結婚するなら、わたしが二度と口をきかないよ」

ここで描かれる父親 ベネット氏は、どこまでも娘自身の幸せを願い、娘の意志によりそう、まさに「こんな父親がほしい 2016」といったキャラクターなのである。


そして戦う娘たちといえば、舞踏会でダーシーはエリザベスとダンスしないのかと聞かれ、こう言う「許容できるけれども、わたしを誘惑するほど魅力的ではない」と。しかし、このあとゾンビ退治をするリズとベネット家の娘たちをみたダーシーは「あの彼女腕は、驚くほど筋肉質だけれども、女らしさを損なうほどではない」(*1)と言ってリズに恋してしまうのだ。そう、戦う娘たちはとんでもなく魅力的なのだ。

 

・プロポーズの言葉の変化
劇中でリズがプロポーズされるのは3回あるのだが、その言葉が各回で印象的に変わっているのである。

1回目のプロポーズは、コリンズ牧師がリズにプロポーズしたとき。
「この家に足を踏み入れてすぐ、あなたに一目惚れし、わたしの人生の伴侶にと思いました。
あなたとの結婚は、わたしの大いなる幸福となるでしょう。
でも夫婦になるのですから、戦士としては引退してもらわなければなりません...
剣などを家に置いておくわけにはいきませんからね」

リズとの結婚は「コリンズの幸福になる」と明言されているのにお気づきだろうか?絶妙にムッとさせる台詞である!(まあでも映画を見ていればわかるけど、コリンズってああ見えて悪意はないんだよね...悪意はないけどナチュラルにウザいタイプの男コリンズ...)


2回目のプロポーズは、ダーシーが密かに想いを寄せていたリズにプロポーズするシーンだ。
「ミス・ベネット、あなたを様々な点で劣っているとする人もたくさんいるだろう。たとえばあなたの生まれ、家柄、富やなんかで。
でもそんなことはわたしの気持ちを抑えることはできない。
わたしは苦しみ、悩んだ。
わたしはあなたに純粋な憧れと尊敬を抱くようになったのです。
どうか、わたしの苦しみを終わらせて、わたしの妻になってくれませんか?」

ここでもプロポーズの主体はダーシーである。「ダーシーの」苦しみを終わらせるための結婚であり、先ほどのコリンズのプロポーズにつづき、リズはこのプロポーズにおける幸福の主体とは捉えられていないようにも感じられる。

 

3回目のプロポーズは、万難去った後、再度ダーシーがリズにプロポーズするときである。
「わたしへの気持ちは変わったでしょうか?
あなたから一言返事をいただければ、もうこの件について話すことはありません。
エリザベス・ベネット、あなたはわたしの最愛の人です。
半分苦しみながら...
半分は期待とともに...
聞かせてください...
わたしをあなたの夫になるという、とてもとても素晴らしい名誉に預からせてくれませんか?」

3度目の正直とばかりに、ここでは「妻」という言葉が出てこない。ダーシーが「リズの」夫になるというプロポーズの台詞であり、それをダーシーは名誉なことであると言っているのである。これは、最高のプロポーズではなかろうか?リズの「イエス!」の返事に、ガッツポーズしたのはダーシーだけではない。この素敵なプロポーズを聞いてわたしも劇場でガッツポーズをしたのである。

 

・白馬の王子は誰なのか
リズも何度か危機をダーシーによって救われるが、じつはこの映画における白馬の王子はベネット家の娘たち、リズとジェーンである。インビトウィンで対ゾンビ戦の指揮をとるビングリーとダーシーが、ともに窮地に陥ったとき、どこからともなく現れて2人を救うのは、リズとジェーンだ。

とくに、ビングリーにいたっては、なぜ前線に出てきたの?と聞きたくなるほどどんくさく、自宅にゾンビが侵入してきたときも、退治に行くのに躊躇したり、挙句の果てには、階段から落ちて気絶している始末である。前線でも、凡ミス(なぜ戦場にリボン付きブラウス着てきたのかな...?しかもそれが命取りになってるよ...)で窮地に陥ったビングリー(=姫)を、ジェーンが身を挺して守るのであった。

そして、この映画で、最後に白馬を駆るのはリズであり、戦う女の子なのである。つまり最高なのである。

 

というわけで、つらつらと、最高だった部分をメモ書きしてみましたが、とにもかくにも、戦う女の子最高!バッタバッタとゾンビをなぎ倒す女の子最高!ドレスの下に武器を隠す女の子最高!の最高ばっかりのガールパワー映画でしたので、ぜひ見てほしい。アーッ、ほんとに最高だったーァ!!!!!華金にビール片手に見たい最高の1本です!!!

 

(朗報!) 概ね公開終了してしまっていますが、都内(23区内ではなくてごめんね)では11/19から、八王子のニュー八王子シネマでかかるそうです。ちょっと遠いですがお出かけついでにぜひ!!!

わたしが見たかった化粧品CM- チママンダとお化粧-

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先日とある化粧品のCMが炎上していたけれども、今日発表されたイギリスの化粧品会社BootsのNo7というシリーズのCMは、"We Should All Be Feminists"の著者であるチママンダ・ンゴズィ・アディーチェを起用していた。チママンダが化粧について、化粧をすることについて語るメッセージが素晴らしいので、ざっと邦訳した。(もし何かお気付きの点があれば教えてください)

「たくさんの美容広告は、女性たちは子供のように扱われなくてはいけない、という間違った前提に立って、そういう"幻想"をかきたてています。ほんとうの女性は、すでに他の実在の女性からインスパイアされていますから、美容広告も、そういうことに取り組む必要があるかもしれません」

Vogue UKにこう語っているチママンダは、化粧品のCMで、いったい何を語ったのだろうか?

そして、わたしたちが見たいのはこういうCMである。年齢や、外見や、装いによって、誰も貶められることのないCMである。

 

Boots No7 Match Made Ad with Chimamanda Ngozi Adichie


https://youtu.be/f1hMx_dx1nE

 

聞き起こし:

"Our culture teaches us that if a woman wanted to be taken seriously, she's not suppose to care too much about her appearance.


So far while, I stopped wearing make up and hid my high heels.


And I became fool's version of myself.


But then I woke up, and I saw in full color, full confidence begin.


Because the truth is, make up doesn't mean anything.


It's simply make up.


It's about how I feel when I get it right.
What makes me happy when I look in the mirror.


What makes me walk even so slightly taller.


It's about the face I choose to show the world.


And what I choose to see."

 

和訳:

「もし、女性が一人前に扱ってほしいのなら、あまり外見に気を使いすぎてはいけない、とわたしたちの文化は教えます。


だからわたしは、しばらくの間、化粧をするのをやめ、ハイヒールを隠しました。


わたしは愚かだったのです。


でも、あるとき目をさますと、極彩色の完全な自信が見えました。


なぜなら、ほんとうは、お化粧は何も意味しないから。


お化粧はただのお化粧。


それは、お化粧がうまくいったときに、わたしがどう感じるか。


それは、鏡をみたときに、わたしを幸せにしてくれるもの。


ほんのすこし背筋をのばして歩けるようにしてくれるもの。


それは、わたしが世界に見せたい顔。


そして、わたしが見たいもの。」