#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

理論と実践の狭間で-バッド・フェミニストによせて-

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理論と実践の間には、少なくともわたしのいるこの場所から見ると、乗り越えれない深い断絶があるように思える。

わたしはよく、こんな記事を目にする。「ジジイに媚びるのは処世術じゃない!」「若い女性はジジイに媚びるべきでない!」「女だからってさせられるお茶汲みやお酌にはNoと言おう!」

なんだか、日本にもようやくフェミニズム、というか性差別を是正しようという流れがやってきたのかな、と少し嬉しくなる。それでも、わたしはそのような記事を読むたびに、なんども傷ついている。

もちろん、媚びること、お酌をすること、職場で「物事を円滑にすすめるために」笑顔を見せること、それがどれだけよくないことか、理論上は、よくわかっている。それらの「媚びをなくそう」と女性に呼びかける記事は、とても正しい。なぜなら理論上は、「女性だから笑顔でいなよ」と言われてた見せる笑顔は間違っているし、女性だからと(非言語下でも)強要されるお酌もお茶汲みも、職場で物事を円滑にすすめるために年上の男性に媚びることも、間違っている。わたしたちはもっと性差別的に押し付けられる振る舞いから自由になるべきだ。

けれども、わたしが住んでいるこちら側は、笑顔を見せなければ、「可愛げもない」と影口をいわれ、お酌をしなければ「お高くとまって感じが悪い」と言われ、媚びなければ仕事が円滑にすすまない世の中だ。波風立てずに仕事をしていきたいなら、笑顔を見せて適度に媚びなくてはいけないのだ。これがわたしの住むところの実践だ。

率直に言ってしまえば、仕事が円滑にすすむなら、媚のひとつやふたつ、お安い御用だとわたしは思っている。お酌で仕事がスムーズにすすむなら、それも仕方がないと思ってしまう自分がいる。

わたしにだって媚びずに、笑いたいときしか笑顔を見せずに、お酌やお茶汲みなどわたしの仕事ではないと言い切って生きていきたい。でもそれを実践したとき、「なんて女だ」と言われ、それをやったことで苦労するのは、ほかでもないわたし自身だ。

媚びるな、という記事は、わたしが媚びをやめたことによって、わたし自身が背負い込むであろう苦労を、汲んでくれているのだろうか。わたしの世界の実践は、わたしが理想とする理論とは、あまりにもかけ離れている。抑圧されている人に理論をふりかざして「こうすべき」というのは簡単だけれど、そこで悪いと指摘されるべきなのは抑圧されている者なのだろうか。わたしにはわからない。どうかすると、それらの記事を書いているライターの方たちの住んでいる進歩的な世界と、わたしが住んでいるまだまだ昭和のような世界が、同じ国での出来事だと思えなくなる。

もちろんわたしの中にもフェミニストはいる。そしてわたしは、物事を円滑にすすめるために笑顔を見せ、お茶汲みをし、お酌をするたびに、彼女を、わたしの中のフェミニストを、ぶん殴っているような気持ちになるのだ。いまではわたしの中のフェミニストは、小さくなってしまっているし、あざだらけでボロボロだ。

毎日毎日、フェミニストとしての理想を裏切るようなことをしないと、わたしはこの社会で生きていけない。少なくとも円滑に社会生活を進めるためには、フェミニストである自分自身を裏切らなくてはいけないことがなんどもでてくる。だから、わたしはわたしが生活しているこの社会で、フェミニストであることは、悲しいほど難しいことだと感じている。

フェミニストである」ために正しいとされる理論と「実際に社会で生きていくこと」という実践の間には、深い断絶があって、わたしはその断絶の中で毎日苦しんでいる。

だから、わたしにとってロクサーヌ・ゲイの「バッド・フェミニスト」は、ただピンクが好きだとか、女性蔑視的な音楽を聴いてしまうだとか、趣味趣向だけの問題ではない、もっと大きい救いだった。「バッド・フェミニスト」は理論と実践の間にある、深すぎるほどの断絶に、少しだけ橋をかけてくれたような気がしたのだ。

わたしがいるところからすれば、フェミニストを自称する必要など全くないなんてことはありえない。むしろわたしは、この世界で、正々堂々としたフェミニストでいることは、なんと難しいんだろうと考えている。

 

・最近の媚びるな案件「おっさんへの“媚び”に得はなし」働き女子が30歳までに知っておくべきこと|ウートピ

この記事は、セクシュアルハラスメントに耐えてしまうことと媚びを混同しているような気がする。セクハラに耐えることは媚びではないし、あからさまな下心を持って近づいてくる年上の男性と、経験の豊富な(マンスプレイン)男性にときめいてしまうこと、それに警鐘を鳴らすことは大切だ。セクハラにはNOと言うべきだし、若い女性に下心を持って近づいてくる年上の男性なんておおよそろくでもない。そこには同意する。

けれども「媚び」という言葉には非常に多くの日常的行動が含有されてしまうから、言葉を生業にしている人々の対談としては、言葉のチョイスが大雑把なのではないか。

個人的には「セクハラに耐えること」「下心を持って近づいてくる年上の男性に毅然とした態度をとること」と「媚びるな」ということは相容れないことではないかと思う。

 

追記: 自分が性差別的な業務をやっていないからといって、「媚びはやめよう」と言ってしまうのはそれこそどうなのかな?別の女性がその仕事をやらされてないかとか、自分が媚びる必要がないのなら他に目を配れるところがあるよね?それがフェミニズムじゃないのかな?自分がやってないからいいって、それじゃ「媚びるな」って書いてるその記事と同じなんじゃないのかな...違うのかな...

 

キャサリン・マンスフィールド『不機嫌な女たち』

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幸せの絶頂にあるとき、しばしば人生というのは、その絶頂にあるものに冷水を浴びせることがあって、むしろそれがわたしの人生らしさなのかななどと、最近では思うことがある。

天にも昇るような気持ちや、幸せな日常に、急にぽかりと口を開ける不幸、死、そして人間の邪な気持ち、邪悪さ、そんなものがキャサリンマンスフィールドの短編にはつまっていて、読みながら背筋がすぅすぅするような気持ちになる。けれどもふと考えてみれば、平穏に思えた日常に急に現れる不穏な裂け目は、わたしたちには馴染み深い。なんだかこのピンク色の薄い紙にどす黒い墨汁を垂らして、そのシミがゆっくりと広がっていくような感覚が病みつきになる短編集だった。

「コクソン」: 異質なるものとの対峙

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わたしはあまり韓国映画に詳しいほうではないのだけれど、ナ・ホンジン監督の作品はとても好きで、『コクソン』もとても楽しみにしていたのである。それで、初日にッ!!見てきましたッ!!

なんかもうずっと緊張しっぱなしで、けれどもその緊張を茶化すかのように思わず笑えるシーンが出てくる。これは一体なんなのか...!!!混乱しながらも、とても面白かった。けれどもわたしはまだ混乱していて、それをちょっと整理したいと思う。

この映画は本当にたくさんの層が重なっていて、ここでわたしが書くのはその層のほんの端っこでも掴めていたらいいなあというようなことだ。面白かったから、もう一度見たいと思っているのだけれど、わたくし、國村ショック(夜になるとあの國村さんを思い出してめっちゃ怖くなる病)によって1週間ほど電気をつけっぱなしでないと眠れなくなりましたので、とりあえずわたしの考えたことをサクッと書いておきます。

 

(以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。)

 

この映画は、様々な異質なるものとの対峙を描いた映画であるとわたしは考える。まず、この映画全体を覆うのは、社会的な抑圧の回帰と、異質なものへの恐れである。

社会的に抑圧されたもの、つまり禁忌はそれこそが異質であり、異質が日常に侵食してくる、それこそがこの「コクソン」という映画だろう。ここにおける禁忌とは、性と死である。そしてそれは、様々な異質の物を通じて媒介される。冒頭で、ヒョジン(娘)によって目撃される両親のセックス、警察署前に現れる全裸の女、日本人によってレイプされた女、日本人の家に置いてある春画の本、これらはすべて抑圧された性に結びつく。そして、村で次々に起こる殺人事件、これは人間にとって最も異質である死を、哭谷に導き入れるのである。

わたしはここで、「コクソン」を「父と娘の関係」から読み解いてみたいと思う。確実に、物語のプロットの1本の大きな柱には、この父と娘の関係があるだろうと思うのだ。

 

1) 娘の成長を恐れる父親
娘に悪霊がとりつき、そして娘が異質のものになってしまうというプロットは、思春期の娘の成熟を、娘がいままでとは違うもの(=異質のもの)になってしまうという父親の恐怖心と重なるのではないか。つまり、思春期の娘の性的な成熟の過程が、父親がそれを恐れるあまりあの悪霊憑きとして表現され、その悪霊に対する恐怖は、大人の女性となってしまう娘に対する、父親の恐怖心とも捉えられるだろう。

冒頭で、車での両親のセックスを目撃することは、「抑圧された性」という禁忌の目撃である。娘が性という禁忌に触れたことを父が知ったことを発端に、父親には娘が性的に成熟した、大人の女性になってしまう、その恐怖がつきまとうようになる。

そして、娘が禁忌に触れたことがきっかけとなり、「不可解な死」の不安が、門の内側、つまりジョングの家に持ち込まれるのである。

 

2) 肉体的な成熟と門
もちろん娘の大人への成長には、肉体的な成熟も含まれるだろう。劇中では明らかにされていないが、おそらく10歳前後であるヒョジンも、成長の過程として初潮を迎えることが充分に推測される。父の娘の成熟への不安として、この初潮への恐怖もあげられるだろう。

たとえば病で伏している娘の部屋で、娘の異変を探す父は、なぜか彼女のスカートをめくり、その印である「湿疹」を探す。そして娘の臀部に湿疹を発見するのである。なぜ首元や手ではなく、娘の足を確認したのだろうか?これは娘の初潮への不安と、臀部の赤い湿疹は、初潮を表しているのかもしれない。

女性嫌悪的な社会において、女性の生理はしばしば不浄のものと見なされる。娘の生理を恐れる父の恐怖は、娘が不浄のものとなってしまう恐れをも内包しているのである。

また、娘の性的な成熟への恐怖は、娘による「知らないおじさんが、わたしの部屋のドアを叩いて、入れてくれという」という娘の発言にも表れているだろう。後述するが、建物の門やドアはしばしば、女性器のメタファーとしても捉えられる。このドアを叩いて、入れてくれという、その発言は、ゆくゆくはヒョジンの経験する性行為を暗示しており、これによって父親の不安はさらに増していくのである。

「コクソン」では、ジョングの住む家の門がうつされるショットが多くあったように思う。この門は、フロイトによれば、女性器の象徴ともされ、またその門から中に入ったジョング宅は子宮の暗喩とも捉えることができるだろう。

そう考えると、物語終盤での門での出来事はこう読み取れるかもしれない。

白い服を着た謎の女、これもフロイトによれば白い服は女性の象徴であり、またわたしたちにとって馴染みの深い白い服といえばウェディングドレスが連想される。つまり、この謎の女は、成長した娘の経験する、結婚を暗示しているとは捉えられないだろうか。この謎の女は、不浄を取り払おうとする祈祷師を門の中に立ち入らせない。そしてその際に、祈祷師は不浄のものである血を、門の前で流す。結婚を暗示する白い服の女は、娘の成熟を妨げようとするものから、ヒョジンを守るのである。何者も、娘の成長を止めることはできないのだ。

そのあと、白い服の女は、ジョングにこう言う「門に結界を張った。お前が立ち入らなければ、家族は死なない」と。つまり、娘の成長を妨げようとしなければ、家族は守られるということである。しかし、大人の女、しかも結婚を暗喩する女からの忠告を、当然のように、成熟した女性性を恐れるジョングは聞こうとしない。

ジョングが家の門に足を踏み入れると、門に張られていた結界にぶら下がっていた青い葉をつけた小枝は枯れる。ジョングは、自ら娘の成長を阻止するために、その門の中に入り、そして、娘自身に殺される。何者も、娘の成長を止めることはできない。成長するために、娘は親殺しをするのである。

そして、子宮を暗喩するジョング宅は、血で真っ赤に染まる。これは娘の初潮を暗示するとともに、娘の親離れを示すのだ。子離れができない親は、娘の手によって殺される。

「コクソン」は、父と娘の関係性から、娘の成長と、それを恐れる父親の物語、そして、成長する娘の、親離れの物語とも読み取れるのではないだろうか。

 

*あとがき
ここまで書いて、ちょっと自分の読み解きが気持ち悪いんじゃないかとすら感じております...でもおそらくこの映画は、フロイト的な読み解きもかなりできる映画なのでは...と思うので、楽しんでいただければ幸いです。

わたしの青春カムバック!「トリプルX:再起動」

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※この記事は、わたしの中二病時代の(思い込みに満ちた)センチメンタルな思い出と、トリプルX: 再起動のネタバレをおおく含みます。ご注意ください。


わたしは中学、高校時代、ヴィン・ディーゼルが大好きだった。まわりの友達が、ジャニーズか、ヴィジュアル系バンドに狂っていたとき、わたしはなぜかヴィン・ディーゼルに狂っていた。

ワルの走り屋 ワイルドスピードのドム、宇宙の暴れ者 リディック、そしてポップカルチャーの寵児 ザンダー・ケイジ、心優しい巨大ロボット アイアン・ジャイアント、彼の演じるキャラクターはすべて、めちゃくちゃかっこよくて、わたしはとにかくヴィン・ディーゼルに夢中だった。

学校から帰ると(わたしは部活動する暇があったら映画を見たり、本を読んだり、好きなバンドの追っかけをしたいといという理由で帰宅部だった)すぐに海外のヴィン・ディーゼルのファン掲示板を読み漁り、彼の情報を入手し、その頃アメリカ在住の方が運営していたヴィン・ディーゼルの日本語ファンサイトに入り浸っていた。(彼は、ワイルドスピードで共演して付き合うようになったミシェル・ロドリゲスと別れ、ブリトニー・スピアーズと浮き名を流したりしていた)

ちょうどわたしがヴィン・ディーゼルに夢中になっているころ、リアルタイムで劇場に足を運んだのが「トリプルX」だった。

ご想像のとおり、わたしはザンダー・ケイジに夢中になった。彼が着ていたムートンファーの(ザンダー・ケイジのトレードマークの!)コートに似たものを探し求めて購入し、ザンダー・ケイジがはめていた「X」を模した指輪と似たデザインに指輪をサン宝石で買い求めた。白のタンクトップを買い求めた。おそらく当時、チャンスがあれば、わたしは首にxXxとタトゥーを入れていたことだろう。(近くに気軽に入れるタトゥーパーラーがなくてよかった。)

ザンダー・ケイジは最高だった。彼はアウトローで、正統派のスパイたちとは違って、エクストリームスポーツの達人だった。スケートボードスノーボードを駆使して、世界を救った。ザンダー・ケイジの活躍は、全くスマートじゃないけど、わたしはザンダー・ケイジに夢中だった。とはいえ相手役のアーシア・アルジェントもめちゃくちゃかっこよくて、わたしは大人になったらこういう(どういう?!)女性になるんだと決めていた。

ここまで書けば、この、言ってしまえば大味のアクション映画「トリプルX」を、わたしがどれほど好きだったか、わかってもらえるだろう。言ってみれば、この映画は間違いなくわたしの青春の1ページで、今見直して「おやおや...」と思うことが多々あったにしても、この映画はわたしにとって、ほんとうに思い出深いものだ。

(ここまで書いたものを読んで、自分に友達がほんとうに少なかった理由がわかる気がしている)

そして、トリプルXは主役をヴィン・ディーゼルではなくアイス・キューブに変えて、続編がリリースされたけれど、わたしは正直、なぜトリプルXヴィン・ディーゼルがいないのか理解できずに、不満だった。わたしにとって、ザンダー・ケイジがいなきゃ、それはトリプルXじゃなかった。(思い返すにつれ、ほんとうにめんどくさい高校生である)

ときはたち、わたしはヴィン・ディーゼルの大ファンであったことを、少し恥ずかしく思って、大人になった。しかし、ヴィン・ディーゼル主演で、トリプルXのリブートが出ると聞いたとき、わたしの黒歴史というパンドラの箱が開くのを感じた。つまり、ものすごい心が高鳴ったのだ。ザンダー・ケイジが!!!かえってくる!!!密かに、興奮した。わたしのティーン時代のヒーローが、満を持してスクリーンにかえってくるのだ!!

そして、満を持して、映画館にむかった。共演には、最高のアクションスター ドニー・イェン、ハンサムでセクシーなルビーローズ、チャーミングなトニー・ジャー...これを聞いただけで、ものすごい期待してしまう。そして、映画は、たしかに大味かもしれなくて、たくさんの欠点があることもたしか(ていうかめちゃくちゃバカみたいな台詞もいっぱいあって腹抱えて笑ったよね...「世界は心の中にある...」とかドヤってたけど、正直意味わからないし、アイス・キューブの「グーチョキパーよりグレネード」も、言ってる本人めっちゃドヤってたけど、意味が全然わからなかった大好きです)だけれど、それでも、最高だった。もしかしたら、大人になったわたしは、このリブートを好きにならないかもしれないとすごく心配していたのだ。でもそれは、不要な心配だった。

映画館でみた「トリプルX: 再起動」では、ザンダー・ケイジは、いや、トリプルXは、アウトローたち、マイノリティたち、はぐれ者たちのために復活していた。

トリプルX:再起動」には、普段ハリウッド映画で見ることがない人種的マイノリティたち(中国、タイ、インド、ヒスパニック)が、トークンという形ではなく、映画のメインキャストとして、Xの仲間たちとして登場し、アデル(ルビーローズ)はセクシュアルマイノリティだ。そう、はみ出し者のエージェントの物語だったトリプルXは、リブートとして、ハリウッドにおけるはみ出し者、おおくの場合、映画に表立って出ることのない者たちをトークンではなく、Xの仲間たちとして取り入れているのだ。

そして、後方支援担当のベッキーの扱いも、最高だった。雑に扱われがちな後方支援人員に「わたしは屋内であなたたちを守らないと。死なれちゃ困るから。」と言われたら、胸が熱くなってしまう。(結局、後方支援担当に感情移入しがち...)外に出るエージェントたちもかっこいいけれども、それを守る後方支援する者たちも、同じように重要なのだ。(ザンダー・ケイジがポール・ドノヴァンをおちょくるたびに、クスクス笑うベッキーには、たぶんポールに嫌なこと言われたり、現場に出ない人間は重要じゃないみたいに言われたりしていたんだろうな...とまで想像してしまった)

ここまで言って気がついたけれど、とにかくドニー・イェンのアクションはめちゃくちゃかっこよくて、期待通りにルビーローズは抱かれたいほどハンサムだし、ザンダー・ケイジはザンダー・ケイジなので、こんなブログを読んでる暇があったら今すぐ映画館にいってもらいたい。この映画について、多くを語るのは野暮だろう。とにかく最高だった!!!!!!わたしはザンダー・ケイジの復活を映画館で、そしてXの最高の仲間たちをスクリーンに見ることができて、ほんとうに嬉しかった。

そしてなにがいちばん嬉しかったか、それはザンダー・ケイジが復活することでなかったことにされてしまいはしないかと、少し気がかりだったアイス・キューブが「最後の切り札 ダイアル9」として登場することだ。

わたしはジェイソン・ボーンシリーズで、ジェレミー・レナーがシリーズを引き継いだ「ボーン・レガシー」が好きだったのだけれど、どういうわけかジェイソン・ボーンが復活したとき、アーロン・クロスのことはなかったこととされているように感じてすこし悲しかったのだ。だから、続編に納得していなかったとはいえ、アイス・キューブ演じるダリアス・ストーンがなかったことになったら、すこし悲しいと思っていたけれど、仲間に手厚いXは、そこもちゃんとケアしてくれていた。ありがとう!!ありがとう!!!

高校生の、続編に対して不機嫌だったわたしに教えてあげたい。ザンダー・ケイジは、最高の仲間を連れて戻ってくるよ、と。そして大人になったあなたは、映画を見ながら笑みが止まらず、スキップをしながら家に帰って、パンドラの箱を開けて、中高時代の、ヴィン・ディーゼルの熱烈なファンガールだった思い出を、日記のようにブログに書くよ、と。

だがしかし、ひとつ言わせてもらいたいのだけど、ザンダー・ケイジが女にモテる、ザンダー・ケイジといえば女だ!という設定、そろそろいらなくはないか?ヴィン・ディーゼルは海坊主にしか見えないし、最後セレーナ(ディーピカ・パードゥコーン)とキスをする意味もわからない。イギリスで美女たちに囲まれるザンダー・ケイジも不要だと思う。ザンダー・ケイジは、世界を救うためにペニスを使う必要はない。ザンダー・ケイジはセックス・シンボルになる必要はない。セクシー美女たちをはべらせる島のマフィア(?)はクリシェ的でつまらないし。でもさ、びっくりすることに、この映画ベクデルテストはパスするんだぜ...!
わたしは映画館でほんとうに楽しかった。やっぱりザンダー・ケイジはかっこよかった。最高だった。

【翻訳】ロクサーヌ・ゲイ「バレンタインデーを嫌うのを、やめてみようと思う」

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明日はバレンタインデーですね!!

わたしも毎年、このころになると「またか...」という気持ちでバレンタインデーやそれにまつわるものを嫌っています。

いまだって、わたしはバレンタインデーに対して素直になれない。

それはたぶん、ただ愛を伝え合う記念日である以上に、ここ日本では、バレンタインデーというものにすら性別的役割が押し付けられているからなのかな、と思ったりもする。

わたしは社会人7年目だけれども、いままで会社の人にチョコを渡したことがない。わたしの上司は憎たらしすぎて、あげるチョコなどないのだ。

しかし今年、はじめて部署に顧問と先輩が入って、この2人がとてもよくしてくれる(今年、わたしは会社に入ってはじめて、2人が誕生日を祝ってくれたのが、すごく嬉しかった)ものだから、なんと!自発的にチョコをあげてみようという気になったのである。

あぁ、こういうものなんだな、と思った。この前書いたお酌の記事もそうだけど、押し付けられるものは嫌だけど、自発的にでた行動は、全然嫌じゃなかった。というわけで、わたしは、ほんの少しだけ、バレンタインデーと和解ができそうである。

というわけで、みなさまへのバレンタインプレゼントとして、2015年にロクサーヌ・ゲイがガーディアンに寄せたバレンタインデーについてのコラムを翻訳してみました。(何か問題があればすぐに取り下げます)ぜひお読みいただければ幸いです。

 

(原文)

I am giving up hating Valentine's Day. Celebrating love is a beautiful thing | Roxane Gay | Opinion | The Guardian

 

(翻訳)

ロクサーヌ・ゲイ 「わたしはバレンタインデーを嫌うのをやめたい。愛を祝うことは、美しいことだから」

 

わたしはバレンタインデーを、いつも苦々しく思っていた。恋人がいても、バレンタインデーが嫌いだったし、独り身でも、バレンタインデーが嫌いだった。愛とロマンスの企業化と、バレンタインデーが広く階級的消費者主義から搾取をするために作られたマーケティング的な記念日であることをわたしは罵ってきた。わたしはショッピングセンターにある宝石店のコマーシャルに対して呆れたように目を回した。わたしはすべてのキスが、宝石から始まるわけではないと知っているのだ。(*訳注 Kay Jeweryという宝石店の"Every Kiss Begins with Kay (すべてのキスは、Kayからはじまる)というキャッチコピーをもじっている)

今年、わたしはバレンタインデーにすすんで身を任せてみようと思う。だって、根本的なところをつきつめれば、愛を祝福するための記念日を嫌うために多大なエネルギーを費やすのは、ものすごく疲れることだから。

わたしは結婚したことがない。将来結婚するかもわからない。結婚したいとは思っているけれど。なぜ結婚してないのかと聞かれたときには、わたしの両親は幸福な結婚生活を42年も続けているんです、と説明する。だから、結婚という誓いに対してのハードルがものすごく高く感じるのだ。

でもわたしはかわりに、こう打ち明けよう。わたしはとても長い間、愛という概念に恋をしていた。何があっても無条件にあなたを愛し返してくれる人を見つけられるということ、完璧にあなたを愛してくれて、足元からあなたをすくい上げてくれるような。そしていちど愛を見つけたら、あなたの世界すべてが完璧にうまくいくのだ。わたしは人格形成期にたくさんのロマンス小説を読みすぎたのだ。わたしはロマンティックコメディを偏愛している。わたしはなぜロミオとジュリエットがあのような最期を迎えることになったわけを、理解できる。

わたしは愛という概念に恋をしていた。だからわたしは自分の恋愛関係においても、精巧なフィクションを作り上げたのだ。どんな恋人とでも、わたしは愛にとてもよく似たものを分かち合っているのだ、と自分に信じさせるためのフィクションを。わたしは「愛している」と、まるで言葉が通貨であるかのように言う。その言葉がわたしの情熱の対象が、わたしの気持ちに純粋に報いるようにしてくれるかのように。しかしいつも、そういう関係はうまくいかない。

もしくは、こう打ち明けることもできるかもしれない。わたしはロマンスに関連するアドバイスを、あまりにも信じすぎていた。わたしは「THE RULES 理想の男性と結婚するための35の方法」のようなものを真剣に信じていたし、愛がこんなにも信じ難く、突発的で、びっくりするほどメチャメチャなものだとは、想像すらしていなかったのだ。

わたしは愛にまつわるいろんなことを知っているし、わたしが愛について知っていることについて自信があった。だから、わたしが愛について知っていることに矛盾することはなんでも、そんなの嘘だろうと考えたのだ。いまでは、わたしは愛を知っているし、愛については何も知らない。かつてわたしが自信を持って知っていたことは、なんの意味もなさなかったのだ。

わたしは愛する。けれども、どう愛されたらいいのか、どう人から見られるか、そしてわたしがいかにダメな女性かを知ることについては、少し自信がない。なぜならそれには身をまかせることが必要になるから。わたしは完璧じゃないけれども、どちらにせよ、もしかしたら誰かの情熱に値するのかもしれないと認めることが必要になるからだ。

ときどき、見知らぬ人が、愛しているとわたしに言う。そいいう時、わたしはく震え上がる。だって、彼らがわたしに対してそんなに強烈な感情を持てるはずがないのだから。まあ、少なくとも、わたしは自分にそう言い聞かせる。その一方で、たしかに彼らがわたしを確かに愛している可能性も受け入れなければいけない。彼らが、自らその言葉を選んでくれたこと、そのことを尊敬しなければいけない。わたしはそのことにも、身を任せなければいけない。

愛というのは、強烈な感情で、そしてとても力強い言葉だ。でもわたしたちは、愛という言葉を軽々しく使ってしまう。「わたしはチャニング・テイタムを愛してる」わたしはよくこう言っている。わたしは、チャニング・テイタムの人格とルックスが大好きなのだ。(女神よ、あの首がたまらないのです!)でもわたしは、本当の意味で、彼のことを愛しているだろうか?それは違うだろう。わたしは自分の電話を愛してる、この前見つけた靴を愛してる。睡眠を愛してる。愛にも色んな尺度があるのかもしれない、と思う。

わたしは、いつか愛という言葉を軽々しく使うことをやめるようになるのだろうか?わたしはそんな無謀なことは気にしないけれど。でも、その言葉を注意深く使えば、わたしの意図はより明確になる。その言葉を使うとき、わたしは確信が持てるのだ。その確信がとても弱い地面に立っているものだったとしても。つまり...目と目があって、わたしは怯える、わたしの心は躍り、そして目をそらせなくなる。

TOKEN FEMALEとしてのエマ: 映画『マグニフィセント・セブン』

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 先日劇場公開された『マグニフィセント・セブン』は、素晴らしく個性のある俳優たちによって素晴らしいセブンの面々+エマがとても素敵な映画で、わたしは映画館でこの映画を楽しんだのだけれども、少しモヤモヤしてしまう部分もあって、わたしはそれについて書きたいと思う。正直、わたしの中でこの映画に対する感想といえば「とてつもなく魅力的な俳優たちが演じた、セブン+エマのかっこよさ」くらいしか浮かばないので...楽しかったし好きなのだけど...という気持ちを勝手に書いて整理するための更新です。あらかじめ言っとくと、この映画を褒めている人たちをクサしたいわけでもなく、たしかに魅力的な映画だったし、だけれどもわたしの(たぶんものすごく偏屈な)ものの見方で(了見の狭さと偏屈の合わせ技で)解釈しますということです。

 

「魅力的な俳優たちがその魅力と力量によってものすごく映画とキャラクターを魅力的に仕上げている」とわたしは思う「マグニフィセント・セブン」だが、革新的な女性キャラクターとして絶賛の声が多いエマというキャラクターも、よく考えてみるとわたしには少し不可解な点がある。わたしにはエマというキャラクターが"TOKEN NEGRO"ならぬ"TOKEN FEMALEという役どころなのではないかと思えるのだ。

 

"TOKEN NEGRO"というのは、映画やドラマ内の人種の偏りを正すために全員白人のキャラクターの中にいる、ひとりだけ黒人のキャラクターのことである。そして"TOKEN FEMALE"とは、男性キャストばかりの映画やドラマのなかで、女性差別がないことを示すために、唯一登場する女性キャラクターのことである。

 

そう、たしかにエマの描写は革新的である。彼女は映画中で「タマがある」と評されるほど強く、銃を撃ち、セブンの面々と同じくらいに、ラストの戦闘では活躍する。しかも劇中でも「ズボンを履いた方がいいな」と言われているのに、スカートをはいたまま戦うのだ!かっこいい!スカートを履いていても、女性は強くなれる、戦えるのだ!これはたしかに西部劇に登場する女性表象としては、現代的なものと言えるだろう。


しかしどうだろう、たしかに彼女はスカートを履いたまま銃を撃ち、戦った。しかし彼女の強さは「(肉体的に男性しか所持しない)タマがある」という言葉で男性性に回収されるのではないか。もちろん"Got Balls"というのはイディオムで「度胸がある」という意味ではあるけれども、この語源として「男のみが有している度胸(=タマ)を持っているからという説もあるほどだ。

 

そして、このスカートを履き、女性なのに男性のようにセブンたちと戦ったエマという女性の表象が革新的である一方で、セブンたちが酒場で交わすジョークの数々は、とても男根主義的で、性差別的である。ジャック・ホーンのシャツを繕って持ってきた女性は「彼と寝たいからだ」とセブンたちに言われていたが、銃を手に戦う女は褒められるが、戦う者のシャツを繕う女性は性的なジョークの対象として、貶められても良いのだろうか?エマを褒めるわたしたちは、彼女の「強さ」をあまりにも一元的な、男性的な「強さ」だけを基準にしてはいないだろうか。彼女の強さがわたしたちに感動を与える一方で、誰かをサポートしようとした女性は、この映画では性的なジョークの対象とされるのである。(とはいえ終始何かに耐えるように涙を溜めた目で戦いに挑むエマというキャラクターはとても魅力的であったことに違いはないけれど)

 

このように、エマという強く戦うという現代的なテーマを持った女性の存在の一方で、性差別的なジョークが繰り返される様子は、映画の中のモラルコードの不均衡を感じさせる。そこにわたしは大いに混乱したのである。

 

そして、最後にチザムの命を救うほど活躍したエマは「セブン」の中には含まれない。いくら「タマがあって」「銃を持ち、セブンに劣らないほど戦い」「あの村を守った」エマでさえも、男性7人で構成されたセブンの頭数には入らない。彼女は、映画の多様性を深めるため、に取り入れられたトークンであり、昨今の「フェミニズムのエッセンスが入った映画のヒット」を意識したキャラクターだったのではないだろうか?わたしたち女性は、どんなに強く、スカートをはいて、戦っても、タマがあると評されても、活躍しても、男性中心的な映画の中では、トークンでしかなく、決して「マグニフィセント」には、なれないのである。

 

(ひとりごと)
元々の映画ありきのリメイクなのだから!と言われればたしかにエマがセブンには入らないことも、西部劇ならではの性差別的ジョークがあることも理解はできる。しかし、役者を変えて同じ設定、同じ価値観の再生産をするのなら、名作と言われる作品をわざわざリメイクする必要があったのだろうか?極端にいってしまえば、わたしはマグニフィセントと呼ばれる7人が、全員女性であるくらいのリメイク作品が見たい。そしてその女性たちは、彼女たちらしく、わたしたちに刷り込まれたステレオタイプ的な男性的強さにも、女性的弱さにも、囚われることはない女性たちであればいいと思うのだ。

 

(ひとりごと その2)

西部劇を題材にして、強い女性が描かれる映画といえばコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』を外すことはできないだろう。父の仇を討つために、ひとり保安官を雇い、そして仇を討つ少女、マティは、それこそエマの前身とも言えるキャラクターではないか。マティもスカートをはき、銃を撃ち、強く復讐を遂げるのである。『マグニフィセント・セブン』には男根主義的な匂いがたしかに存在しますが、『トゥルー・グリット』もマティの復讐を通して、老保安官が自らの男性性を回復する話だとも、わたしには思えるのです。でも、それが女性蔑視というフィルターを通さずに伝わってくる!というわけでみなさん、『トゥルー・グリット』は最高ですよ!!!!

 

(ひとりごと その3)

セブンが酒場で交わす男根主義的で女性蔑視的な会話を、わたしたちはたくさんの映画で見過ぎてしまっている。だからわたしは、あの場面でセブンたちが「女性蔑視的な会話をしている」ことは指摘できても、代わりになにを話せばいいのか、全く思い浮かばない。討入前夜の士気を高める場面で、女性蔑視ではない会話と言うと、一体彼らはなにを話すのだろう?男性が寄り集まると女性蔑視発言、という映画はもう見飽きた。そろそろ士気を高めるために、結束を確認し、他愛のない話をするために、女をダシに使うことのない会話を、始めても良い頃合いではないだろうか?

 

(ひとりごと その4)

たしかに酒場の性的なジョークのシーンでは、その「お前とヤりたいんだぞ」というジョークのあとにジャック・ホーンが「女性に対してそんなこと言うな!」と怒っているので、あそこの女性蔑視的なジョークは断罪されているとする人も多いようですね。わたしもあのシーンではジャック・ホーンに好感を覚えたのは事実です。しかし、映画のプロット上に女性蔑視的なジョークを挟み、それに倒して登場人物に「こういう風に言う奴もいるけれども、わたしはこうは思わない」と表明させることは、"Not All Men"ムーブメントで表明された「そうでない男もいるんだ」という言い訳に思えます。そもそも「わたしは女性の味方である」ということを表明させるために、ジャック・ホーンに「そんなことを言うな」と言わせるためだけに、あの性差別的なジョークが必要だったのでしょうか?女性をエンパワメントしたいのであれば、他の、もっと適切な表現があったはずです。

 

そもそも、"Not All Men"というのはポジティブなミームではなく、女性がハラスメントやセクシズム、性的暴行などについて声を上げたときに「いや、そうじゃない男だっている!」(=男を責めるな)と言う一般化をする人がいるということから発生した、"Not All Men"と発言する事を揶揄するミームあったはず。わたしはあそこで"Not All Men"と言われたところで、いやしかしそのような発言してる登場人物が現にいるので...としか言えないのである。(エマがそれは正しくないと言う役割を担っていたなら、話はすこし違ってくる気もする気もしますが...)

「それはわたしの仕事ではありません」問題

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わたしは新卒としていまの会社に入社した。いまでは7年目、もうすぐ8年目になる。会社に入っていちばんはじめに学んだことといえば、接待の席でのお酌の仕方だ。社会人になって、食事の席ではニコニコ座っているだけではダメなことを知った。


会食なんていうものは社会人になってからがはじめての経験だった。社内の上層部との会食、お客さんとの会食、いろんな会食が少なくとも週1回、多い時は週3回ほどあって、もちろんわたしに断るという選択肢などなくて、友人と約束がある日も、約束を断って会食に参加していた。他の人のように、断ればよかったのだが、わたしの部署は上司とわたしの2人だけで、誰も「会食を断っても、クビにはならないよ」とは教えてくれなかった。


はじめての会食の席で、上司は大声でわたしを呼びつけ、わたしにお酌の仕方、水割りの作り方を指導した。他にもわたしの同期がいたのに、わたしだけ、なぜか怒られるようにして水割りの作り方を教えられたのだった。(いま思えばこれはしょーもない上司の「俺はちゃんと上司やってますよ!」アピールだったのであろう。) 

 

それから、会食の席で、わたしは必死だった。隅から隅まで、テーブルのグラスの残量に目を光らせ、少なくなったらサッとお酌をしにいく。水割りを作りにいく。疑いはなかった。なぜなら上司の命令だったし、こういうのをするのが社会人なんだと思っていたからだ。誰かのグラスが空いていても、わたしが気づかないと上司から「ホラ!!先輩のグラスあいてる!!」と声が飛んだ。その先輩の横にいるわたしの同期ではなく、わたしが怒られた。


同期の中で、社長のお気に入りと噂の女の子がいた。ある日その子に「わたしは、お酌するために大学を出たんじゃないから」と言われた。殴られたような気がした。わたしには絶対言えない言葉だった。女だから、とか、そういう理由でお酌を押し付けられることはおかしいと、わたしはよくわかっている。わたしだって、こんな風にお酌係なんかやりたくない。でもわたしには「それはわたしの職務ではない」と、言うだけの度胸がない。そういったことで嫌われるのではないか、その「嫌われること」をわたしはどうしても良しとはできなかった。多分いまでもできないだろう。


ある時、フィリピンからお客さんが来て、会食にいったときのこと。いつも通りわたしがコートを預かったり、お酒をつごうとすると、そのフィリピンのお客さんは「これは君の仕事じゃないから」と言って、コートをわたしに渡さずに、自分でハンガーにかけていたし、お酌もさせなかった。社会人になってはじめて、誰かから「コートをかけたり、お酌をしたりするのは君の仕事ではないよ」と、言ってもらえたのがこのときだった。


(その横で、お客さんが自分でハンガーにかけているのに、コートをわたしに手渡してきたのがわたしの上司である。この時ばかりは「皆さんご自分でおやりですよ?」とコートを受け取らなかったけど。)


そのあと、何回も日本人と会食に行っているけれども、わたしにコートを渡さなかったり、お酌をさせなかった人はいない。みんながみんな、そうでないのはじゅうぶんわかっている。けれども、それからも、会食の席でコートを受け取り、お酒を注ぐたびに、「これは君の仕事ではないよ」といってくれた彼らのことを思いだし、この社会は、わたしにコートを受け取らせ、お酌をさせる、時々そんな気持ちになるのだ。


いまだにお酌をしません、わたしの仕事ではありません、とわたしはいえない。そんな勇気が、わたしにはない。わたしに唯一できるのは、コートを受け取り、お酒を注がなければいけないような場に行かないことだけである。