#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

エンパワメントってなんだろう?

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いまさ、ほんと毎日のように女性をエンパワメントしようとか、多様性をとか、そういうウェブの記事がどんどん流れてきて、でもそれらのほとんどがわたしにとっては困惑の種でしかないのだ。エンパワメントを銘打った記事のページを開くとき、わたしはとてつもない不安に襲われるし、記事を読んではモヤっとした気持ちを残したままページを閉じるのである。

それはなぜか。

いちいちそれらの記事を取り上げてまとめてたのでは一生かかるし、どこに喧嘩売り散らかすんじゃいってかんじになっちゃうから、ひとつ、「エンパワメント」という名目のもとに作られた企業CMを例にあげて、その彼らの言う「エンパワメント」の危険性みたいなものを書いてみたいと思う。

 

それでは、一旦このCMを見ていただけますか?(ちなみにだけどわたし毛むくじゃらだし、エステサロンから金貰ってCM貼ってるわけじゃないからね)

KIREIMO 100% GIRLS!! 100人篇 60秒 - YouTube

 

これは脱毛エステサロンの企業CMなんだけど、これは「女性のエンパワメント」や「多様性」を意識して作られているように思えるのね。それで、このCMが放映されると、たしか結構「いいね」っていう好意的な声が多かったように思う。たしかに、このCMは消費者を脅さない。「毛が生えていたら男が逃げるぞ」とか「ジョリジョリじゃモテない」という呪いをわたしたちに押し付けてくることはない。この脱毛サロンは「なりたい自分、100%の自分になるための脱毛」を売り込んでいるのだ。(ねえ、気づいたんだけど、わたしすっごい毛深いからさあ、無意識にすごい脱毛サロンのCMに注目してるみたい。上の文言、どこのサロンのCMか名前挙げられるもん。脱毛の予定ないけどさ。)

まあたしかに、消費者をネガティヴな呪いで脅して商品購入をさせようとしない、という意味では過去にたくさん炎上してきた化粧品やなにかのCMからは随分とポジティブなCMに思える。しかも!なんと!エステサロンのCMなのに、「従来の理想とされる体型」ではない、従来のモデル体型からはプラスサイズとされる渡辺直美をメインに据えているのである!これってすごい!

(そもそも太っていることは受け入れられるけど、毛深いのはNGなのか?っていうとこについては、これ脱毛サロンのCMなんでちょっと置いておくね。少なくともこのCMは「毛深いのはNG」という表現は表立ってはしておらず、なりたい自分になるための脱毛という売り文句を使っているから。)

 

....ほんとうにこのCMはすごいんだろうか?

 

1) 多様性とはなにか

たしかに渡辺直美をメインに据えているところで「多様性」を打ち出したい企業側の意識もよく理解できる。しかし、渡辺直美以外の女性たちを見てほしい。

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 どうだろう。渡辺直美以外の「多様性」はここにあるだろうか?多様性を打ち出した映画などの作品において、そこで批判されるのが「多様性の代表的な人物」を「ひとりだけ」登用することで「多様性」を表現することである。この「多様性を体現するたった一人の人間」はしばしば「トークン」と呼ばれる。で、それを踏まえてこのCMを見ると、明らかに渡辺直美トークンとして、つまり多様性を示すための唯一の登場人物としてこのCMに登場しており、つまり渡辺直美ひとりを除けば、その多様性は崩壊することになるのだ。

多様性って、多様ってこと、つまりはやっぱりそのひとりを除外したらあとは従来どおりの女性表象というのでは、多様性とは言えないのではないか。それでもこれが多様性というのなら、わたしの考える多様性とはずいぶんかけ離れたものだ。

 

2) エンパワメントとはなにか

それで、このエステサロンは、 国連国連ニューヨーク本部で開催された「対話と発展のための世界文化多様性デー」の一環であるイベントに「女性のエンパワメントと多様性」を掲げて参加しているんですね。

国連の友Asia‐Pacficと東京ガールズコレクションが提携し実現した『TGCファッションセレモニー at 国連DDR』に「すべての女性をもっとキレイに」を目指すKIREIMOも参加!|株式会社ヴィエリスのプレスリリース

そうなると、なんだろう、これはもはや「オフィシャルの」(指クィッてやるやつでイメージしてね)エンパワメントなのだろうか?という疑問も生じてくる。

 そしてまたぞろ、このエンパワメントを目的としたステージパフォーマンスの写真を見てみたいと思う。

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どうだろう。多様性とエンパワメントを体現したステージで、渡辺直美以外の女性の画一性がひとめでわかるのではないだろうか。つまりここで提示された多様性とは「渡辺直美」ひとりであり、それ以外は「従前どおりのモデルのような痩せていて美しいとされる身体」なのである。あれ、多様性ってなんだったっけ。ここで(しかも国連というステージ上で)提示された、この脱毛サロンによる多様性とは、ご覧の通りなのである。

また同じ場でスピーチを行った同社のCEOはこのように述べている。

すべての女性が自分らしく、 いつも100%の自分でいられること。 それが私たちの考えるキレイです。 」「女性たちが自分らしく、 ポジティブに生きることができれば、 世界もきっと、 より良い方向に進んでいく。 そう信じて、 KIREIMOはこれからも進化を続けます!

ステージ上やCM上で提示される一見ポジティブなメッセージに包まれた限りなく狭い多様性という表象が、「女性の自分らしさ」や「100%の自分」という言葉と合わさって、この「エンパワメントのような何か」が形成されているのだ。この居心地の悪さはいったいなんだろう。これがほんとうにエンパワメントなんだろうか。悲しいことに、わたしにはこの企業の提示する「100%ガールズ」という表象には、旧来然とした「美しさ」「キレイ」という定義しか読み取ることができない。

 

いまや、世界はいわばポスト・フェミニズムであり、時代の流行はエンパワメントである。日本はまだまだだけど、欧米ではその流れは進んでいて、エンパワメントこそ、フェミニズムこそが「売れる」と考えられている時代である。

少し前に欧米ではセレブがこぞって自らがフェミニストであると表明し、そしてそれに対して「商業的フェミニズム」「セレブ・フェミニズム」という批判が起こった。アンディ・ゼイスラーなんかが、特にフェミニズムの商業化を批判してたんだけど。

Celebrity Feminism: More Than a Gateway | Signs: Journal of Women in Culture and Society

おそらくいま日本で起こっている「エンパワメント」という流れも、このフェミニズムの商業的という文脈で批判されるべきなのであろう。「エンパワメントのような何か」を「エンパワメント」として提示し、女性の購買意欲をかき立てること、そういう戦略的なフェミニズムがこれからたくさん出てくるだろう。

でもわたしたちは、その度に、そこに提示されるメッセージを、その表象を、きちんと考えなくてはいけないと思う。わたしたちは考えることをやめてはならない。

 

(補足) まあたしかになんていうのかな、資本主義的な消費活動と、フェミニズムっていうのは相反することだと思う。けれども、女性の購買というものを目的としたときに企業が打ち出すフェミニズストとしての姿勢、多様性という表象やメッセージは、必ずしも頭ごなしに否定されていいものなのかとも思う。

この資本主義社会の中で、消費活動として何かを買うとき、そりゃもちろんわたしたちに向けて脅して買わされるより、ポジティブなメッセージのもとで気持ちよく消費活動をしたいと思うのももっともなわけで....難しいよね。わたしは少なくともポジティブなメッセージを与えられて、良い気持ちで物を買いたいと思う。だからこそ、「フェミニズムの仮面を被ったなにか」、つまりその仮面の下にある旧来然とした価値観には、注意深くなりたいと思うのである。

 

 

 

クィアな物語としての「オクジャ」

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韓国ドラマ「シグナル」を見て以降、「殺人の追憶」を見たくてたまらなくて、今日時間を作ってみたのだけれども、それでそのあとどうしてもNetflixオリジナル映画の「オクジャ」を見たくなって、見たんですね。それでめっちゃ気づいたことがあるんですよ!おなじみの「そこまでしなくてもいいんじゃない?」のわたしの深読み大炸裂ですけど!えへ!というわけで書きます。

 

1) 「殺人の追憶」と「オクジャ」の関連性

「オクジャ」において、ミジャが誘拐されたオクジャを追いかける時に着る服は「赤色」のジャンパーであり、この赤色のジャンパーというのは「殺人の追憶」で最初の3人の被害者が来ていた服の色である。つまり、「殺人の追憶」という映画では性的暴行および殺人の被害者としての色であった赤色をミジャは纏っているのだけれども、今回ミジャは被害者(ではあるんだけれども)としてではなく、奪われた友人のオクジャをどこまでも追いかけ、取り戻そうとする自らの意志と行動力を伴った女性として、「殺人の追憶」の被害者たちとはまた違った意味で、その赤色のもつ、被害者性や、他者の性的欲望の捌け口とされる呪縛を解き放つ存在としてのキャラクターなのではないだろうか。

 

2) 同性愛の物語としての「オクジャ」

表面的には動物愛護や食料生産などを訴える物語をして読むことのできる「オクジャ」であるが、わたしはこれを「シェイプ・オブ・ウォーター」以前の、「人間」と「人間ではないもの」の「愛」の物語であると読み解きたい。

例えば、ALFのメンバーであるシルバーとブロンドはゲイカップルであるわけで(*1)、そう考えてみるとこの物語にクィアなコードが隠されていても全く驚くことではないだろう。しかし映画中では彼らがお互いを大切にしている描写はあるが、ゲイカップルであるとは明確に示されることはないから、気づかない人もいるのかも。でもゲイカップルが出てるからってわざわざ「この2人はゲイカップルですよ!」なんてアピールする必要は全然ないわけで、そういう意味でも「オクジャ」の描写はとても良いよね。

そして、オクジャとミジャの関係性は映画を見る通りとても親密である。誰にも明かされない(それは観客にも明かされることはない)2人だけの愛の囁きを持っており、オクジャがミジャから引き離されたとき、ミジャは命がけでオクジャを取り戻そうとする。オクジャは雌のスーパーピッグであることは映画中でも明らかにされており、この2人の親密さを鑑みると、ミジャとオクジャはレズビアン・カップルの暗喩と捉えることができるのではないか。そして、彼女たちが乗り越える別離と苦難、そしてパートナーを取り戻す過程を経て、この恋人たちは、子供を授かる。食肉加工場の屠殺待機場所にいたスーパーピッグから、子豚を託される場面がそこに相当するわけだけれども、パク・チャヌクの映画において、新しい家族を獲得するとき、その新しい子供は「口から」生まれる。「グエムル 漢江の怪物」では、怪物の口からヒョンソ(カンジュの娘)と少年(のちにカンジュと暮らし、彼の息子のような存在になる)が怪物の口から生まれ直すことで、血縁は異なった新しい家族が作られることになる。

「オクジャ」においても(舞台上で自らが噛みついたミジャの腕の傷をオクジャが舐めるところは、明らかに「グエムル 漢江に怪物」の怪物が側溝へ連れて行ったヒョンソの顔をベロリと舐めるシーンのオマージュになっているように思えるのだが)スーパーピッグの子供は、オクジャの口に隠され、そこからミジャとオクジャ、スーパーピッグの子供という、血縁の関係がない家族が誕生する。この3人を家族として考えると、ミジャとオクジャがカップルであると考えられるのではないだろうか。

 

3) 金の豚(追記したよ!)

ミジャとオクジャの物語がただ少女とペットの友情の物語以上のものである得ると解釈できるのは、「金の豚」の存在もあるのではないか。

オクジャがNYへと連れさられる際に、ミジャの祖父がミジャに(本来ならオクジャを買い戻すためだったお金で購入した)金の豚を「韓国では嫁に行く娘に金を持たせるからな。」と言って渡すのだけれども、ミジャはこの金の豚を使ってオクジャを取り戻す。ここには、オクジャの所有者であるミランド・コーポレーションとの合理的な、資本主義的売買という側面があるけれども、この金の豚に込められた「結納金」という意味をもって考えれば、ここでミジャとオクジャはミランドに結納金を支払い、結婚したとも取れるだろう。そしてその帰り道に子供を授かる。つまり、やっぱりこの物語はミジャとオクジャのクィアな物語なんじゃないかと思うわけである。

 

というわけで、「オクジャ」をクィアに(?)読み解いてみたんだけど、どうだろう。

 

(*1) Netflix blockbuster Okja features a gay couple, but you might not have noticed · PinkNews

「デッドプール2」における人種的ステレオタイプ

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見てきました「デッドプール2」!ということで個人的に気になったことを考えます。ちなみにわたしは「デッドプール1」もさほど嫌いではなくて(ワルな俺ちゃんの物語を青春ロマンスものという文脈で物語ったのはすごい面白かったと思うし)、けれどもやっぱり気になったところもあって、その気になったところが「デッドプール2」をみてさらに深まったというかんじです。ので自分の中で結論なんて出ちゃいないんだけど、ツイッターでぼちぼち書くのも長くなっちゃってお目汚しなのでこっちにまとめます。

 

デッドプール2」はかねてから、反差別映画、そして多様性を描いた家族映画としての評判が高く、その点でも評価されてるようにざっと感想を読んだ限りでは思う。わたしはその評価にも少し疑問を感じていて、そこらへんにも触れられたら。

 

デッドプール2」でいわゆるセクシュアル・マイノリティに括られるであろうキャラクターはデッドプール(パンセクシュアル)とネガソニックちゃん(レズビアン)だと思うんだけど、これに関してはいままでマーベルで頑なに描写が忌避されてきたレズビアンカップルを登場させたことの功績は大きいと思う。セクシュアリティについては結構普通にマイノリティと呼ばれる人たちも登場させてる。

その一方で気になるのは人種的マイノリティたちの描写である。以下それについて考えてみますね。

 

あっ、あと考察には載せないけど、コロッサスも1のときからバリバリのロシア系ステレオタイプだよね。

 

1) ドーピンダー 

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インド系のドーピンダーは、「デッドプール」のときからのキャラクター、1でもデップーに料金を踏み倒されたり、デップーの適当なアドバイスを間に受けて好きな女の子の彼氏を誘拐したりしてる、ありがちなコミックリリーフ的な存在だった。

デッドプール2」では、ドーピンダーは(なんと!)冒頭から「僕はスーパーヒーローになりたい。僕のスーパーパワーは勇気だ!」と自らの野望を語る。

しかし、デッドプールには軽くあしらわれ、次の場面ではウィーゼルのバーで「なんでモップがけがスーパーヒーローになることと関係あるんです?」とか言いながら雑役をさせられている。しかもなんだかスーパーヒーローになるためにここで働くようにと丸め込まれた雰囲気すらある。

一方、劇中でドーピンダーと同じようななんのパワーも持たない人物で、なぜかスーパーヒーローになってしまう人物がいる。スーパーヒーロー募集広告を見て「なんか楽しそうだから!」とノリで応募、そしてなぜか「合格!」つってX-FORCE加入のピーターである。ピーターは、WASP的なキャラクターであり、ピーターの加入によって、「ヒーローに入れてもらえないインド系エスニシティのドーピンダー」と「やすやすとヒーローになれる白人男性のピーター」という二項対立が描かれる。

こうしてはじめて(ピーターの登場によって)、この映画におけるドーピンダー描写の意図が理解できるようになると思うのだが、つまりこれは「夢を持っていても、社会的にその夢を叶えることが許されず、社会的に雑用と思われる仕事しかさせてもらえないアジア系男性」と「なんかわかんないけどノリでヒーローになりたいって言ったらすんなりヒーローにしてもらえちゃう特権階級の白人男性」という描写なんですね。

これはおそらく制作側が明確に意図した人種差別批判であるのだけれども、しかしそれを理解した上で、そのドーピンダーの扱いをギャグとして笑えるか?という問題が浮上する。つまり、現実として搾取される移民(アジア系とか問わずね)と、特権階級にいる白人男性という明確な格差が存在するわけで、それがなかなか改善しない中で、これをギャグにしちゃうには早すぎない?とも思うのである。ヒーロー映画のメタとしての「デッドプール」という位置付けであれば、逆にこんなステレオタイプに満ちた描写よりもっとなんかできたんじゃない?!とも思うのね。

最終的にドーピンダーは、ある活躍を見せるのだけれど、それもまたコミックリリーフとしてのステレオタイプ的役割を脱することのない活躍であり、ファミリーに入ったような気配はあるけれど、ファミリーでもコミックリリーフ的なステレオタイプ扱いだったなら、それこそドーピンダーはトークンであると結論付けられても仕方ないのではないか。(これは続編見ないとわかんないけどね)

 

2) ユキオ

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ユキオについては映画の公開前から髪の毛のメッシュがアジア系女性のド・ステレオタイプと言われてたキャラクターだけど、こちらはネガソニックちゃんの恋人として登場する。(つまり人種的マイノリティでもあり、セクシュアル・マイノリティでもあるということ。)

ユキオは劇中真っピンクの髪の毛をしていて、教えてもらったんだけど、戦う時だけメッシュになるという設定。アジア系女性ののステレオタイプ的表象として、ピンクや紫などのメッシュが入っている(*1)というのがあって、これは度々批判されてきてる。このメッシュというのがどのような意味を持つかというと

If you're not familiar with the concept, the "Asian hair streak" cliché is when an East Asian character has a streak of neon dye in their hair, often to signal that they're rebellious. It's present in all sorts of movies and TV shows, from "Glee" to "Big Hero 6."

'Deadpool 2' character Yukio brings back 'Asian hair streak' trope - Business Insider

つまりネオンカラーのヘアメッシュは、彼らが通常おとなしくて従順とされるアジア系のステレオタイプとは違う、反抗的なキャラクターであるということを示している、と。(ねえすごくない?おとなしくて従順というステレオタイプとから逸脱させるためのステレオタイプがメッシュヘアーだよ?!ステレオタイプ入れ子構造かよ?!アジア系女性キャラクターはこれくらいステレオタイプ化しないと描けないかってことだよね。ダメじゃん。)

で、まあこれもそう、ステレオタイプ通り。超クリシェ

しかもユキオは、鼻にかかったような声で劇中「ハーイ!」と「バーイ!」を繰り返すのみ。これもアジア系(ていうか日本人)女性のステレオタイプだよね。ニコニコニコニコ愛想がよくて、鼻にかかったような、いわゆる幼稚な声色をしているっていう。

ドーピンダーみたいに「あっこれは現実批判だね?」みたいな余地ないがくらいステレオタイプでは...という気持ちになってきました。

(ユキオの表象から、マーベルにおけるアジア系キャラクターの表象については以下のBustleの記事がよかったです。)

After 'Deadpool 2', We Need To Talk About How Asian Women Are Depicted In Marvel Movies

ユキオもいちおう最後の場面で「ハーイ!」「バーイ!」という以外の活躍を見せるんだけど、これもなんというかドーピンダーの活躍とおなじでとってつけたようなかんじであることは否定できないと思う。マイノリティの活躍がものすごいトークン的なんだよね....でもこれもアメコミのメタをやるデッドプールだから、そのステレオタイプ批判としてやってる、って言われたらもうそうですか、って。メタなんだもんね、メタって便利だ。もしかしたら無意識にやってるステレオタイプな描写も、受け手は「メタ映画なんだから、意図的にやっているアメコミ批判に違いない」と思ってくれる。ある意味デッドプールにおける不謹慎ギャグ(これさ、反?人種差別ギャグめっちゃあったけど、ギャグにしてる部分は全部「トンチンカンなアンチ人種差別」みたいなやつが多いんだよね。たとえば、ブラック・トムのことを「彼はブラックなんだから!」「彼を殺すなんてお前(ケーブル)は人種差別主義者だな?!」っていギャグがあるんだけど、ブラック・トムってJack Kesyっていう白人男性によって演じられてる。じつはトンチンカンなやつで、別に反人種差別的なギャグではなくて、むしろ過剰なポリコレみたいなのを揶揄してるんだと思うんだよね)も、ステレオタイプ描写も、その映画の構造によって、受け手に解釈を丸投げしているようなものなのかもしれないね...なんかわかんなくなってきた。

 

3) ファイアーフィスト

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ファイアーフィストはマオリニュージーランド人のジュリアン・デニンソンによって演じられており、マオリ系もまた映画ではなかなか登場することがないマイノリティである。 で、しかも劇中で「スーパーヒーロー業界はファットフォビア(肥満嫌悪)があるから僕はスーパーヒーローになんかなれない」というように、やや太めの体格をしている。また彼は、ミュータントの子供達のための養護施設でひどい虐待をうけていて、そこから将来ヴィランになってしまうのをデップーが防ぐみたいなのがメインプロットなんだけど。虐げられたものをデッドプールが救う話なのね。これって!デッドプールってなんていうかアンチヒーロー的というか、不謹慎なキャラクターと思われてるけど、映画のプロット的にはものすごくステレオティピカルなんだよね。簡単に言うと弱いもの、虐げられたものを救うヒーローのお話、これがメインプロットになってて、もしかしてこの映画自体がものすごくメタフィクションなんですよね。だからなんか「すごい家族映画!」という感想はそれはそうでなければならないわけで...メタ映画だから....

 

なんかもうよくわかんなくなってきた!でもメタフィクションだから、とはいえいい加減そこらへんの人種差別的ステレオタイプ描写にはわたしたちも辟易してるよね...と言いたかった。以上です。

 

でもずるいなーって思うのは全てのステレオタイプな描写をどんなに批判したところで「これメタだから」って言われたら全ての批判をはねかえせるところ。つよいよな...ずるい。

 

3月の読書

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もとはといえば読書ブログなのに気づいたら手早くかける映画の感想ブログになってない?!ということで月ごとに読んだ本まとめようかなと思いやした!読書すごいしてると思われがちなわたしだけど、全然そんなことないんだぜ!みんな安心して!!

 

ジョジョモイーズ「ワン・プラス・ワン」

YAだし気軽に読めそうだから旅行のお供に、と持って行ったんだけどこれがものすごく良い本で、旅行中夢中で読んだ上に妹の家でボロ泣きしました。

どん底からどうにか抜け出そうとするけど、人生そんなに甘くないっていうめちゃくちゃつらい現実を読者に突きつけつつも、ラブストーリーという軸で読者を甘やかしてくれる傑作でした...

 

レイ・ブラッドベリ華氏451度」

ブラックパンサー以降、わたしはもうマイケル・B・ジョーダンの虜なわけですよ。その彼がモンターグ役でHBO製作映画化!てきいたら再読せざるを得ないよね....で、ディストピアものと呼ばれるジャンルもの読むたびに「ディストピアっていうかもはや"今"じゃん」て思うんだけど...さ.....ぜんぜん他人事みたいに「えー!やだー!こうなったらこわーい」みたいなテンションではよめなくて「いやいや、もう片足突っ込んでますがな」というかんじよね...

 

ケン・リュウ編「折りたたみ北京」

わたしSFって苦手なんですよ。SFって読むとき脳みその理数系の部分を使うと個人的に思ってて、わたしの脳みそってその理数系の部分が虚無になってるんですね。だからSF読んでも大抵よくわかんなくて終わっちゃうんだけど、ケン・リュウはわたしの脳みそのエモの部分をガンガン刺激してくるので大好きなんです。そのケン・リュウが中国SFを選出したアンソロジーなんですけど、むちゃくちゃエモくてよかったです....あとケン・リュウの「作品の中に中国国家に対する作者のメッセージを読み取ろうとするのは読者のエゴだ」みたいな前書きが最高でした。たしかに当てはめたくなっちゃうよね....という自戒もこめて。

 

ヤア・ジャシ「奇跡の大地」

詳しくは別の記事にまとめましたが、アフリカ大陸から連なるある一族のひとちひとりの人生を断片的に切り取っただけでこんなにも圧倒的な力のある長編を書き上げて、しかもこれがデビュー作って!!これからの彼女の活躍がとても楽しみです。マーベル映画「ブラックパンサー」を見たあとに読めてとても良いタイミングだった。

 

チゴズィエ・オビオマ「僕たちが漁師だったころ」

さめやらぬアフリカ熱のなか、読みました。こちらはアフリカが舞台になっているんだけど、このひとつの物語がナイジェリアという国家の歴史に重なり合うという解説を読んでハッとした。オビオマもこの作品(デビュー作)でブッカー賞ノミネート、1986年生まれって、すごい。あとアフリカ文学は越境の文学であるということ、言われてみればたしかにそうなんだよね。もういまや「XX(任意の国名が入る)文学」何ていう概念は古臭いのかもしれない。

 

 

Netflix版「クィア・アイ」は新しいか

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もうTLでその名前を目にしない日がないくらい話題のNetflix版「クィア・アイ」、ほんとのこというとわたしはこのての番組に対してものすごく懸念があったので敬遠していたんだけれど、あまりに大絶賛の嵐なのでおっかなびっくり見てみたんですよ。そしたらこれが、もうすごくよかったんですよ...1話から滝のように泣いたし、ファブ5は外見や部屋を改造するだけじゃなくて、みんなに自己肯定感を与えてくれる。そしてファブ5の面々の魅力的なこと!わたしも改造してもらいたい...と思ってしまうこと必至である。ファブ5がこの番組を通して伝えるメッセージは、自己改造だけにとどまらず、お互いを理解すること、たとえばその改造を通して異なる価値観を持つ相手とも真摯に向き合って理解していく姿であり、分断が叫ばれるいまこそ見るべき番組であるように思う。

でも、「クィア・アイ」を視聴する上で、ある種の注意意識が観客から欠如してしまうと、ちょっと問題なのではないかと思う。つまり、この番組は「あえて超ハンサムで超センスがよくて超優しくて超素敵なゲイ男性5人」を選んでいるということ。あまりにファブ5が魅力的すぎて、視聴しているとなんかもうそういう意識が吹っ飛んでしまうんだけど、これって何も考えずに見てしまうと、(まあもちろんみなさんわたしより賢くで問題意識も持ってて懸命だろうからお持ちであろうとは思うんだけども)「ゲイ=センスが良くて、ちょっと辛口に批評してくれるけど、ダメなわたしを受け入れてくれて、自己肯定感や元気をも与えてくれる」っていうステレオタイプの再生産に繋がってしまいかねないとわたしは思う。

このおしゃれ云々というゲイ男性のイメージは昔からあるゲイ男性に対するステレオタイプであるとわたしは思っていて。(日本でもメディアに登場するゲイ男性はある種のステレオタイプに沿う人たちしか目にすることがなかったりもするよね)もちろんそのステレオティピカルなゲイ男性が架空の存在だとも、そのキャラクターに合うファブ5の面々がいけないとも言うつもりは毛頭なくて(だってファブ5のみんなは実在する人間であって、彼らはそれぞれ、その個性や人間性よってとても魅力的で素敵な人たちであるから、彼らを否定するなんてできるわけがない)だけども、そのステレオタイプが、その範疇にいない周縁の存在をなきものとしてしまうことも事実であることは認識していなければいけないと思う。(たとえば「ムーンライト」という映画がいままで描かれなかったようなゲイ男性を主役に据えたことがあの作品が評価された要素のひとつであるともわたしは思っていて、だからその描き方の多様性もいまは求められるということ)

たとえばカミングアウトしていなかったゲイ男性を変身させる回(S1E4)では、着る服に悩むAJをモニターで見守るジョナサンが「こんなに着る服を選ぶのに手間取るゲイなんてはじめてじゃない?!」というのだけれど、そんなわけない。オシャレじゃないゲイだって、センスのないゲイだっているはずだ。AJはホモフォビアを内面化してしまって苦しんでいるだろうはずなのに、この発言は視聴者にもステレオタイプを強烈に(ネガティヴな意味で)意識させてしまうだろう。わたしはともすれば、この番組を純粋に楽しんで消費してしまいそうになる。たしかにこの番組は面白いし、感動する、ファブ5は素敵すぎる。わたしもファブ5のことが大好きだ。だけど、わたしはこの番組によって強化されてしまったかもしれない、そのステレオタイプによって苦しむ人がいることも、忘れたくはない。

あと難しいのはファブ5は誰かを演じているわけでもなくて、彼らは彼らなんだよね。だからクィア・アイの番組として、ショウとしての「ステレオタイプの消費」を批判しようとするとき、わたしはその刀で大好きなファブ5のことを斬らなきゃいけなくなってしまう。なんかもうつらくなってきた。(まあこんなブログ書かなきゃいいだけなんだけどさ!)

あと海外のレビュー見てると「多様性を取り入れたクィア・アイの新キャスト」って書いてあるけどいわゆる黄色人種のゲイ男性はここでも透明化してしまっているという問題もある気がするな...あとレズビアンが5人集まった番組っていうのは見ないよね。クィアっていうのは「ゲイ男性」だけを指すものではなく、様々なセクシュアル・マイノリティを表す言葉なはず。となれば、もっと番組の視野が広がってもいいのではないかな、と思ったりもして。

あと日本版Netflixは、なぜこの番組にオネエ言葉の字幕をつけたのか。ファブ5は別に普通に喋っているんだから、わざわざ視聴者をステレオタイプのほうにミスリードするような字幕をつけるべきではないとわたしは思います。

 

ところで、わたしは毎回何かに文句をつけるたびに「ステレオタイプな描写があってもいい」でも「ステレオタイプの再生産はもうそろそろいいのでは」っていうダブルスタンダードみたいなところにはまりこんで身動きが取れなくなってしまう。もう何も言わないほうがいいのかもしれない。なんていうか...いまはこのクィア・アイが楽しいし最高だと思う!でもこれがベストオブベストではないし、これからもっと良いものも作れるんじゃないか、って気持ちでこういうこと言って、楽しんでるひとたちの気持ちに水を差してしまう自分がときどき無性に嫌になったりもする。

 

追記: いまふと思ったんだけど、わたしがここで思う消費っていうのは、結局ゲイ男性のことを「マジカル・ゲイ」みたいな側面で消費してしまうことに対する危惧だったりもする。この番組の性質上、それはどうしようもないことだけれども、その意識なくこの番組を鑑賞することで、そのわたしたち視聴者にとって都合の良い、そして感動を与えてくれる「マジカル・ゲイ」としてのキャラクターを無意識に消費してしまうことは危険であることをわたしは常に意識していたい。

韓国ドラマ「トッケビ」雑感

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「新感染」もとい「釜山行き」を見てからこっち、コン・ユにハマっている。「釜山行き」を見たとき、さしてコン・ユに興味はなかったのだけどなんとなくウィキペディアで検索したらあだ名が「キス王子」と書いてあったんである。「キス王子」って!!!!!!ヒィーーーーーー!!!!となってまあ一気にきになる存在になってしまったわけなんですけどね。変な理由だよね。

 

もともとストーカー気質のファンガールなので、気になった人の作品は全部見るじゃないですか。わたしも見ました「あなたの初恋探します」(謎の一人二役に超混乱したけど、コン・ユさん超可愛かった)、「サスペクト」(アクションもできるコン・ユさんかっこいいかよ...)、「トガニ」(コン・ユさんが、とかじゃなくて映画として名作。必見です。)、「ビッグ」(コン・ユさんのキュートネス炸裂してて死に散らかした)、「密偵」(これもすごく良い映画だった、コン・ユさんに写真撮られたいかよ...)というかんじでですね、短期間にいっぱい見たし、コン・ユさんが出てる映画にはなんというか全部ちょっとずつつながりがあることもわかった。トガニではコン・ユさんが鹿を轢くところから始まるけど、新幹線も鹿が轢かれるところから始まったりとか、新感染も電車が舞台で密偵も電車でのシーンが大きい意味を持ってたり。陰謀論好きのファンガールなので「もしかしてコン・ユを起用する製作陣もしくは監督はそういう意図を持ってやってんのかな」ってニヤついております。(ダンテ・ラム作品におけるニック・チョンてじつはそれぞれの映画で演じるキャラクターが他作品の別バースみたいなかんじで、それぞれキャラクターが繋がってるじゃない?そういうかんじ??)

  

それで、今回リリースと同時におっかけて見てるドラマがありましてね、「トッケビ」っていうんですけど、日本リリース前にタンブラーで画像を探し漁ったらもう沼の予感しかしなくてですね、ヒィヒィ言いながら待ってたんですよ。レンタルリリース当日とか、もうソワソワしちゃって、仕事が手につかないんですよ。時計見ながら会社出るまであと何時間、とかカウントダウンしちゃって。恋かよ!!!!!!!!!

 

で、この「トッケビ」をここのところビンジウォッチしているのだけど、どうも気になるところがあるんですよ。またいつもお決まりのアレ、好きなのに重箱の隅をつつかずにはいられない、わたしの悲しい性なんですけれどもね。今日はそれについて書きますね。

 

(まずトッケビを雑にあらすじ紹介しますね)

登場人物は、コン・ユ=長生き妖精おじさん(900歳)、イ・ドンウク=記憶を失った死神(絶賛恋煩い中)がでてきます。妖精おじさんは、前世で武将だったから人いっぱい殺した罰として死ねない運命を背負ってて、死神は逆に前世で何か業が深いことをしてしまったから前世での記憶を失って、死神をやってるんですね。そして、妖精おじさんを殺してあげられる運命を背負った女の子(高校生)がウンタクです。そんで、妖精おじさんと死神が同居して、そこにウンタクも転がり込んで....という話。

 

韓国の民話に登場する悪戯好きなトッケビというキャラクターと、西洋のものとは違う死神などを登場させたこの作品は、ものすごくうまく韓国のアミニズムを現代のエンターテイメントにアップデートさせていると思うんですね。それはすごくうまいと思う。あとメタな視線でセルフパロディとかやってるんですよ、そういうのほんとすごくよくできてた!おもしろかったんだよね!けれども...というところで書きますね。(言っておくけどわたしトッケビ好きだったよ!おもしろかった!でもここで胸のつかえをおろさせてください....No Offenceです!)

 

1) ウンタクのキャラクター設定

言ってしまえば「トッケビ」というのは韓国版シンデレラとも言えると思うんですが、ウンタクの人生はまさにシンデレラの物語と重なります。母が死に、引き取られた先(意地悪な叔母と兄妹がいる)でイジメられます。幽霊が見えるからと学校でもイジメられ、どこにも居場所がない。けれども、彼女は「トッケビの花嫁」という運命を背負っていて、そのトッケビ(コン・ユ)がシンデレラでいうところの白馬の王子様になるわけです。ウンタクは高校生という純真な年齢からか、自ら「トッケビの花嫁」という役割に自らの居場所を見つけようとするんですね。彼女がトッケビと死神の家においてもらえるのも、彼女が花嫁だから。でも高校生で「花嫁」というところに自らの役割と意義を見出してしまうドラマって、ちょっと旧時代的ですよね。いま叫ばれているのは旧時代的なディズニープリンセスというステレオタイプから脱却した新しいヒロイン像であるはずなのに。もちろんそういう物語があっちゃダメってことではなくて、花嫁に役割を見出す話があってもいいとわたしは思う。でもやっぱりヒロインといえば、王子様を待つ受け身の物語が多い中で、そのステレオタイプの再生産ばかりがなされてしまうことには、注意を促していきたいとわたしは思うのね。そんでさ、その「花嫁」という役割ってじつはものすごい危ういところに立ってるわけじゃないですか。実際ウンタクだって、花嫁じゃないってなったら家を追い出されるかもって心配してる。だからなんだ、あれだな、わたしもある程度年齢いってるから、高校生の女の子が「わたしがトッケビの花嫁だったら、居場所ができる」って考えてるのが辛くなっちゃうんですよ。あなたの人生、花嫁以外にいっぱい幸せになれる選択肢はあるんだから、ってね、自分の足で立てるようになったら好きなことできるんだよ、って。もうなんだ手紙でも書くかって気持ちになっちゃうんですよね。せっかく民話を現代にアップデートしたのだから、そういうヒロイン像をアップデートしようという気概が見てみたかった...などと思うのです。

 

2) ヒロインと相手の年齢差

そんでそのシンデレラ物語の王子様にあたるトッケビなんですけど、不死の罰にあっているので実年齢900歳、見た目はコン・ユなので35歳といった塩梅です。で、その花嫁が高校生(3年生、物語後半からは大学生になります)なんですよね。正直なところ、35歳(900歳)のおじさんと、高校生が「わたしがあなたの花嫁!」「きみがわたしの初恋だった」とかやってるのね、これ現実にあったらすごいダメなやつじゃないですか....かといってわたしは表現狩りをしたいわけではなくって、なんていうか、実際にひとまわり以上年の離れた男性と少女には明らかな権力勾配が存在していて、その関係は搾取/非搾取の関係に陥るし、現実問題として未成年が搾取されるじゃないですか...それをね、なんの批判的目線もなく「花嫁なの!」とかやってしまうの、やっぱり旧時代的すぎると思うんです。 ここ、ドラマ見ていてもかろうじて許容できるようになっているのは、ひとえにコン・ユの演技(というか配慮)の賜物であると思う。抱きしめたり、キスをしたりっていう(まあでもアウトだと思うけどね、だって高校生と35歳だよ...そのフィクションどうやって楽しめばいいのよ...楽しむってつまり消費することじゃん....)フィジカルな接触に対して、ものすごく性的にならないように配慮してるのが見てて伝わってくる。彼はものすごく考えた上で、演じていたのだろうなと、役者としての素晴らしさは感じました。けどもねー、ポリコレって言いたくないんだけど、やっぱり現代に作られたドラマなら、無邪気に高校生とおじさんをくっつけてしまってはちょっと甘いんじゃないかなって思う。

 

で、ここでさ、「ビッグ」はどうなのとも思ってしまうわけじゃん。中身は高校生のコン・ユが、学校の先生と好いたの腫れたのってやるわけじゃん。正直「ビッグ」だってめっちゃ面白かったんだよ、毎日それだけ楽しみに日々暮らしてたよわたしは....でもさ、ダメだよね...性別関係なく、未成年と成人がカップルになるっていうのは、それには問題があると認識しなければいけないよね。(いまわたしは血の涙を流しています)

 

なんか煮え切らないポストになっちゃったけど、思考の断片として投稿しておきます。こういうのなんも考えずに楽しめたらよかった、そうなってしまう自分がすこし悲しい。

 

故郷を切望する物語としての「ブラックパンサー」

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ブラックパンサー」を見たその足で、書店に寄ってヤア・ジャシの「奇跡の大地」を買って読んだのだけど、まったく関係のなさそうなこの2つの物語がわたしの中でものすごく結びつきあったような気がしたのでその話を書きたいと思う。あとその話書いてたらブックリストができたので「ブラックパンサー」を見たあと読むべき4冊のブックリストを記事のおしりにつけました。わたしのブログは読まんでいいから本を読んでくれ。(本のネタバレはしてないけど、ブラックパンサーのネタバレしてます)

 「奇跡の大地」の作者ヤア・ジャシは1989年生まれのケニア系アメリカ人で、「奇跡の大地」がデビュー作である。それで、この「奇跡の大地」っていうのはアフリカで生まれた異父姉妹からずっと家系図が追いかけられて、かたやアフリカに残った家系と、かたや奴隷としてアメリカに連れてこられた家系の、その子孫たちの物語が語られるんですね。ものすごいと思うのは、それぞれの子孫たちの話は数ページしか語られないし、彼らの人生のすべてが語られるわけではないのに、その語り口や語られることによって、アフリカからアメリカまで、そして奴隷制のはじまりから現代までを圧倒的な物語として立ち上ってくるんですよ。(読んで!!!!!)

「奇跡の大地」の原題は"Homegoing"なんですが、"Homegoing"というのは、アフリカンアメリカンの葬儀の伝統的な儀式で、亡くなった人が天国へ戻ることを祝福するという儀式で、それでこのタイトルは「奴隷たちは亡くなることによって、その魂が故郷アフリカに戻ることができる」という信仰からとられているんだそう。(これ知って「奇跡の大地」読むと最後死ぬほど泣いてしまうんだけど...)

この「アフリカに戻る」という話を聞いてトニ・モリスンの「ソロモンの歌」を思い出したりもして。ここでもアフリカへの回帰について描かれていたんだよね。彼らにとっての故郷は、アフリカであり、故郷への回帰を切望しているということが根底にあると思う。

 で、「ブラックパンサー」なんだけど、わたしあれはアフリカにあるワカンダ国の王子の話ではなくて、アフリカンアメリカンであるエリック・キルモンガーの"Home"(故郷)の話だったと解釈していて。これは、あのオープニングの父親に故郷の話をねだるのはワカンダですくすく育ったティチャラではなく、エリック・キルモンガーだということからも明確に示唆されていると思う。つまりエリックが"Homegoing"する物語であるということ。

だから、ワカンダという国はある種ユートピアのような描かれ方をしていると思っていて。あれは「こうだったらよかった故郷」「わたしたちがいるべきだった故郷の物語」なんですよ。(そう考えたときに、エリック・キルモンガーというキャラクターの掘り下げ方の足りなさとかも感じるけど)

ティチャラの純粋に、ワカンダという恵まれた国で育ってきた屈託のなさと、父親をブラックパンサーに殺された、ルーツをワカンダに持つ、屈託の塊のようなエリック・キルモンガーが対峙したときものすごい切なくなってしまって。(エリックの気持ち考えるととね...いや、ほんとエリック・キルモンガー最高じゃなかったです...?わたし屈託しかない悪役大好きだからほんとエリック大好きなんだけど...)

 ティチャラというキャラクターが「シビルウォー」で登場したときから、このキャラクターを「ただの黒人ヒーローにはしない」「きちんと描こう」という意思を強く感じていて、それは彼の使う英語のアクセントなんだけど、彼の使う英語ってちゃんとアフリカ訛りだったんですよね。それで「教育をきちんと受けた人なのに訛りのある英語なのはおかしい」という意見を当時目にしたりもしたんだけど(根に持ってる)、むしろそれは違うんだよね。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの「アメリカーナ」で、主人公のイフメル(アフリカでも英語を話してた)が、アメリカに渡ってずっと話してきたアフリカ訛りのある英語を「英語じゃない」みたいに言われる場面があって、ナチュラルヘアと同じようにアフリカから来たものは髪の毛も言葉もアメリカ的に矯正させられちゃう。けど、ティチャラはそうじゃなかった。アフリカにある国に王らしく、アフリカの英語を話すキャラクターだった。だからティチャラっていうのはものすごく配慮されて作られていて、その言葉ひとつとってもそこから血肉が通うようになっていると思ったわけです。

そこから今回の「ブラックパンサー」だけど、もちろんティチャラをはじめとして、きちんと「アフリカ英語」が使われているのはもちろんのこと、アフリカンカルチャーを取り入れて良いと思ったのね。もちろんまだ考えるべきこともあるとは思うけど、わたしは文化の盗用やアフリカのステレオタイプというところではあまりひっかからなくて(そういう批判があることも理解した上で、その話も聞きたいと思ってるからみんなブログとか書いてほしい)むしろ、ワカンダをアフリカにあるひとつの国としてみたときに、キルモンガーが王位についてから、ワカンダ国民が2つに分かれてしまって殺しあうわけですよね。アフリカにもそういう歴史はあって(でもそれは西洋諸国のせいだったりもして)そう考えるとCIAのロスの使い方が安易すぎると思うし、だってロスが撃ち墜としてる飛行機、ワカンダ国民がのってたよね?ワカビの部族とティチャラが戦うところだって、死人でてるよね?そう考えると終盤の展開はものすごい安易だし、あそここそ批判されてしかるべきだとわたしは思う。あの映画のアフリカ描写をアフリカ軽視だというなら、あそこの描き方こそがアフリカの歴史を軽視しているんじゃないかと思う。

と思ったのもヤア・ジャシの「奇跡の大地」を読んだからなんだけど、というわけで、ブラックパンサーを見てもっと考えたいみなさま、ぜひ「奇跡の大地」を読んでほしいと思います。

とはいえ「ブラックパンサー」がもの新しい物語だったかというと、わりとアメリカ映画(つかマーベル全部そうじゃない?)では定石の「父と息子の物語」だったし、物語の路線としてはむちゃくちゃ王道だったよね。女性キャラクターが素敵だったのは間違いないけど、やはりあれは男の物語であるとは強く思いました。

 

あと全然関係ないけど、わたしはエリック・キルモンガー死んだと思ってなくて、だってあのシーンだけ引きで取られてて明確に写ってなかったじゃん??だからキルモンガー死んでないと思うの。だからなんなら、エンドロール後のおまけ映像とか、バッキーがうつるまで、キルモンガーが出るんだと思って、死ぬほど泣いてたんだけど、バッキー出てきて涙引っ込んだし、バッキーもわたし大好きなんだけど、「ここばかりはお前じゃねぇよ!!!!!」てなっちゃったんですよね....(インフィニティウォーのトレイラーでキルモンガーを探した女より)

 

ブラックパンサー」のあとに読むべきブックリスト

1. ヤア・ジャシ「奇跡の大地」

2. トニ・モリスン「ソロモンの歌」

3. チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「アメリカーナ」

4. タナハシ・コーツ「世界と僕の間に」