#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

「ジュブナイル映画」における女性表象

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わたしはスティーブン・キングが結構好きで、友達がいなかった小学生の頃には図書館に通いつめてひたすらスティーブン・キングを読んでいた。スティーブン・キングが別名で書いた『レギュレイターズ』なんかはすごく怖くて夜眠れなくなったほどだった。

もちろんキングの作品が映画化されると聞けば、毎度「がっかりするのかもしれない」と思いながら劇場に足を運んだし、中学生の頃には「IT」をはじめ「シャイニング」(これはキューブリック版もみたし、スティーブン・キングが本当に作りたかった版も見た)とかまあいろいろ見たのである。そして毎度がっかりしていたのだけれど。

この度、スティーブン・キングの「IT」が再度映画化されるときき、(またかもしれない...)と思いつつも、まあ懲りずにまっすぐな目をして劇場に行ったのだった。

最近Netflixでも話題の「ストレンジャーシングス」といい、この「IT」といい、「(元)ぼんくら小学生が憧れる僕らのグループに入ってくれるたった1人の女の子」という描写(ストレンジャーシングスでいえばイレヴン、「IT」でいえばビバリー)がわたしにとっては、正直困惑するところではある。当時(もしくはその作品がオマージュを捧げている時代)はそれでよくても、時は現代、ポストフェミニズム(なんだそれって思うけど)とも言われる頃である。そろそろ(元)ぼんくらさんたちも「僕らの憧れのヒロイン」思想から脱却してもいいんじゃないのかな、と思わなくもない。ときとして、その「僕らのヒロイン」の裏側には必ずミソジニーも潜んでいるものだから。

たとえば映画版「IT」(2017)では、女の子の登場人物は大きく2人しか出てこない。ひとりは僕らのヒロイン、ビバリーで、もうひとりはビバリーをいじめ、エディーのギプスに"LOSER"(負け犬)と書くいじめっ子の女の子だ。言ってしまえば、この映画には血の通った女の子は登場人物せず、それは「理想の女の子」か、(元)ぼんくらのミソジニーを反映した「意地悪な女の子」だけだ。ときは2017年....とため息をつきたくなる。(ここで言っておくと、わたしは「IT」(2017)をそういうものとしてすごく楽しく見たし、ペニーワイズもすっごくキュートでよかったと思っている。)

一方、ストレンジャーシングスでも、S1ではイレヴン、S2ではマックスがチームぼんくらに加入するけれども、どちらも「僕らのヒロイン」としてしか機能することはない。それに、S2でイレヴンが皆の前に再び姿を現したとき、イレヴンはマックスとは目も合わせず、会話もせず、無視をするのである。なんだろう、この手のストーリーでは「女の子同士が仲良くすると災いが起きる」というジンクスでもあるのだろうか?もちろんこれは、マックスがマイクと仲良さそうにしているのを見たイレヴンの嫉妬という理由付けがされているのだろう。でもまあこちらは「それにしてもさーーー!!」といった気持ちである。結局マックスはケイレブと仲良くなるんだしさ。(ドラマ自体はめっちゃ面白く見たんだけど、重箱の隅をつつく小姑体質なのですみませんね...)

そして「IT」のほうはといえば、やはりルーザーズクラブの中にいる女の子はビバリーひとりだけである。しかも、またビバリーの立ち位置というのは「少年たちの性的な眼差しの客体として」である。その点、例えば「スパイダーマン ホームカミング」ではヒロインのMJがヒロインとして(わかりやすい)性的な魅力を振りまくこともなく、一般的にいえばややダサいメガネとボサボサ頭なキャラクターだったことは、すごくよかったと思う。

そして、「IT」において、わたしが引っかかったのはその紅一点のプリンセスが、ペニーワイズに捉えられ、少年たちが救出に向かうという「囚われの姫」構造が繰り返されていたこと、また宙に浮かんだビバリーがキスによって目覚めるところなど、もしかしたらディズニープリンセスもののパロディなのかもしれないけれども、ちょっと直球すぎてびっくりするほどだった。

で、まあこういうジャンル物としての構造上の問題点はいまも継承されたままであって、これは今後こういうジャンル物において、もっと考えていく必要はあるんじゃないかなと思うのである。ティーンになる前の女に子たちの冒険譚だってあってよくない???もうすでにあったらごめんなさいですけど、あんま見なくない????せめて男女混合(非紅一点もの)があってもよくない???(て前にもマグにフィセントセブンでも同じようなこと言ったから、誤解されそうだけど、別に男女同数だったらいいとか、女の子だけだったらいいとかそういう話ではないので、わかってくださいね)


話は脱線して、それでも「IT」(2017)は毒親(エディの母: 息子が自分から離れるのを恐れるあまり息子の病気をでっちあげる/ビバリーの父: 娘に性的虐待をしていそうな完全にヤバい父)をうまく描いていたと思うし、ド田舎のものすごい閉塞感とそこから発生する暴力(のメタファーがピエロのペニーワイズでもあるんじゃないかな)を原作で描かれていたようにうまく表してたと思う。(しかしいまだこのピエロの口もヴァギナ・デンタータのモチーフだったしさ、そろそろモンスターの造形が歯の生えたヴァギナを模してるみたいなのも見飽きないですか....そんなにヴァギナが怖いかよ...?)

それであれです、わたしが一番言いたかったの、あのビバリーの洗面所のシーンなんだけど、ルーザーズクラブの面々の中で実際「血」に関するものを見せられるのはビバリーだけなんだよね。あれって、薬局のシーンで生理用品を買ってたことからも、あの血塗れのバスルームは、ビバリーの大人になりつつある自分への成長への恐怖みたいなものを表してるんだと思う。つまり生理のメタファーというか。それをルーザーズクラブのみんなが手伝って掃除してたのは、なかなか象徴的でよかったかな、と思いました。

いろいろ言ったけど、キング原作ものの映画としては珍しくよくできてたし、続編に期待しております!

 

映画「ワンダーウーマン」はフェミニズム映画であったか?

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DCの新作ヒーロー映画「ワンダーウーマン」は、映画そのものについてもフェミニズム的にとても評価されているという噂を聞いていたし、それに伴って(主演女優がフェミニズムのアイコンとされることについて)主演女優の政治的思想について批判が高まるなどしていた。本作日本での公開が遅かったので作品として良い前評判ばかり耳にして、わたしの期待はぐんぐん上がっていた。ヒーロー映画meetsフェミニズムなんて最高じゃないか。もしかしたらマッドマックスより夢中になるのかもしれない...と、ものすごく期待していた。

そしてようやく今週末日本で公開されたわけだけれども、正直わたしはなぜこの映画が「フェミニズム的である」と賞賛されるのかがわからなかったし、この映画に出演し、ワンダーウーマンを演じたことによってガル・ガドットがフェミニズムアイコンに祭り上げられることもまったく理解できなかった。(そもそもフェミニズムアイコンであるキャラクターを演じただけでその女優がフェミニズムアイコンになってしまうようなフェミニズムなんてフェミニズムではないと思うが)

たしかに女性監督がヒーロー映画を撮る、しかも、女性ヒーローの映画を!とそれはたしかにフェミニズム(というよりも女性の社会進出であるから)画期的なことだし、これからもっと女性監督が女性ヒーローの映画を撮るべきだ。まだまだ女性ヒーローの作品は少なすぎる。しかし、「ワンダーウーマン」はそれだけではなかっただろうか。わたしはこの作品(ストーリーや設定)のどこにフェミニズムを見出せば良いのか、わからなかったのである。率直に言ってしまえば、「ワンダーウーマン」をフェミニズム映画であると言い切ってしまうことには大きな疑問を感じるのである。

(ここで注記を入れておくが、わたしは映画「ワンダーウーマン」を楽しく見たし、つまらなかったとは思わない。いろんな人に見てもらいたいし、映画としては楽しかったと思っている。)

1) セミスキラでの様子
たしかに、かっこいい戦闘衣装をきたかっこいい女性たちだけの島で、彼女たちが戦闘訓練をしているシーンなんかもうすごく興奮した!こういう映画が見たかったんだ!!と思うほどだった。なんならあの島の様子をスピンオフで2時間映画にしてもらって...と思うのだ。

しかし人間の間の争いを止めるために作り出されたアマゾン族たちが、その隷属を嫌い住んだ場所は、彼女たちが平和に暮らすために神によって「隠された」場所だった。そして彼女たちは「外へ出ること」ではなく「霧の中の楽園に」隠れていることを選んだ。劇中で、あの島から出たアマゾン族はダイアナだけであった。

設定上仕方のないことかもしれないが、島に1人だけの子供であるダイアナと他のアマゾン族たちとの絆みたいなものもあまりうまく描かれていなかったのではないかと思う。結局、アンティオペのもとで戦闘の訓練をして、いくら腕を上げたとしても、ダイアナは女王の娘であり、母親は娘が外に出ることを「悲しみ」と表現する。ダイアナという存在は、あの島の中では疎外感があったように思う。

アンティオペとは師弟関係があったのかもしれないが、最後の訓練のシーンでダイアナがアンティオペを傷つけてしまったとき、アンティオペはダイアナを拒絶するような言動をとっていたように思える。フェミニズム的な要素を入れるのならば、もうすこしシスターフッドのようなものが描かれてもよかったのではないだろうか。

(最近では「モアナ」において、テ・フィティの心を取り返す旅に出ようとするモアナに対して反対するのは父だけで、祖母は彼女の旅への意志を応援し、母もその旅立ちに反対していなかったことが、女系家族的な文脈でもとても良いなと思ったので)

2) 旅の仲間たち
ダイアナがセミスキラを出てからスティーブをはじめとする仲間たちができるわけだが、これ以降主要な役で出てくる女性は3人(ダイアナ/スティーブの秘書のエッタ/マル博士)のみである。

しかも、秘書のエッタは劇中、わりと活躍している様子(ロンドンで情報基地局としての役割をきちんと果たしていそうだったし、スティーブとダイアナがドイツの暗殺者たちに囲まれたときも異変を察知してスティーブたちの後を追っていることから)なのだが、出番がとても少ない。ほんとうに「いち秘書」といった役割で、ダイアナの旅の仲間たち(ダイアナと男性4人)よりは格下の扱いである。

また時代考証上仕方なかったのかもしれないが(とはいえワンダーウーマンというそもそも架空の人物を扱っているのだから)旅の仲間たちに1人くらい女性がいてもよかったのではないかなどとも思ったりした。ここでもシスターフッドのような友情や、同じ女性との交流は特に描かれない。(し、女性が村人とかくらいしかでてこない)

映画全体では余裕でベクデルテストをクリアするが、設定上女性しかでてこないセミスキラでの場面を除いてしまえば、ベクデルテストもギリギリクリアというようなかんじでは、わたしは寂しい気持ちがしてしまうのだ。


そんなわけでわたしは特にワンダーウーマンフェミニズム映画であったとは思わない。たしかにワンダーウーマンという女性ヒーロー映画が作られたこと、そしてそれがとても出来の良い娯楽先品であったことは素直に認めるけれども、あれをフェミニズム映画である、ガル・ガドット演じるワンダーウーマンフェミニズムアイコンであると言われると、わたしはそこには同意ができない。

もともとワンダーウーマンというキャラクター自体がフェミニズムアイコンとして作り出されたものである。だとするとあの程度で映画「ワンダーウーマン」をフェミニズム映画として手放しで称賛してしまうのは、あまりにも甘すぎるのではないだろうか。

たしかに、やっと、ここまできて、女性監督による、女性スーパーヒーローものの映画が作られたこと、それはとても喜ばしいことだ。そして、この映画をみて勇気付けられる女の子たちはたくさんいるだろう。そういう意味では、この映画の存在価値は大きなものだ。そしてこれを皮切りに、もっともっと女性監督がたくさんの映画を作るようになってほしいし、女性ヒーローものの映画も作られてほしい。まだまだ進むべき道は長いのだろう。

しかし、この映画の存在意義とは別に、この映画がフェミニズム映画であるかどうかについては、いちど冷静に考えてみる必要があると思う。

・追記
主演女優の政治的思想について批判が多く出ているし、わたし個人もその政治的思想には賛同できない。しかし、主演女優がそのような政治的思想を持って、平和を守る女性スーパーヒーローを演じたということを意識してスクリーンを見たとき、スーパーヒーローたちの抱える自己矛盾が浮かび上がってくるような気がした。

またジェイムズ・キャメロンパティ・ジェンキンスのビーフ合戦については、なんていうかどっちもどっち...とわたしは思っている。

ジェイムズ・キャメロンの発言は女性ヒーローの多様性を妨げるものである(実際に男性ヒーローなんかは、正統派ヒーローからアンチヒーローまでものすごい多様性に富んでるのにね!)と思うし、一方パティ・ジェンキンスの「キャメロンは男性だからワンダーウーマンが女性にとってどんな意味を持つかわからないんでしょう」という発言は性差別的なのでは(男性だから女性のことがわからないわけでもなく、女性だけが真の女性映画を作れるわけでもないでしょ)と思う次第であった。

 

・追記2

女性監督による女性主人公の映画が少ないために、エンパワメントの可能性があるものですらその母数の少なさから完璧さを求められてしまうのではないかという意見もあるけれども、それなら「じゃあ女性監督が作った女性主人公モノの映画だから、出来は良くないけど、良かったとしか言えない。エンパワメントという存在意義があるから、内容の批判はでしない/できない」方が問題じゃない?わたしは男性監督が「ワンダーウーマン」をこの内容で作っていたとしても、同じブログ記事を書いたと思うし、男性監督が作った男性主人公の映画についても、同じように(内容に難があるとか)批判するよね。それと同じような定義を当てはめることができないならそれはそれで、作品批評として問題では...

理論と実践の狭間で-バッド・フェミニストによせて-

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理論と実践の間には、少なくともわたしのいるこの場所から見ると、乗り越えれない深い断絶があるように思える。

わたしはよく、こんな記事を目にする。「ジジイに媚びるのは処世術じゃない!」「若い女性はジジイに媚びるべきでない!」「女だからってさせられるお茶汲みやお酌にはNoと言おう!」

なんだか、日本にもようやくフェミニズム、というか性差別を是正しようという流れがやってきたのかな、と少し嬉しくなる。それでも、わたしはそのような記事を読むたびに、なんども傷ついている。

もちろん、媚びること、お酌をすること、職場で「物事を円滑にすすめるために」笑顔を見せること、それがどれだけよくないことか、理論上は、よくわかっている。それらの「媚びをなくそう」と女性に呼びかける記事は、とても正しい。なぜなら理論上は、「女性だから笑顔でいなよ」と言われてた見せる笑顔は間違っているし、女性だからと(非言語下でも)強要されるお酌もお茶汲みも、職場で物事を円滑にすすめるために年上の男性に媚びることも、間違っている。わたしたちはもっと性差別的に押し付けられる振る舞いから自由になるべきだ。

けれども、わたしが住んでいるこちら側は、笑顔を見せなければ、「可愛げもない」と影口をいわれ、お酌をしなければ「お高くとまって感じが悪い」と言われ、媚びなければ仕事が円滑にすすまない世の中だ。波風立てずに仕事をしていきたいなら、笑顔を見せて適度に媚びなくてはいけないのだ。これがわたしの住むところの実践だ。

率直に言ってしまえば、仕事が円滑にすすむなら、媚のひとつやふたつ、お安い御用だとわたしは思っている。お酌で仕事がスムーズにすすむなら、それも仕方がないと思ってしまう自分がいる。

わたしにだって媚びずに、笑いたいときしか笑顔を見せずに、お酌やお茶汲みなどわたしの仕事ではないと言い切って生きていきたい。でもそれを実践したとき、「なんて女だ」と言われ、それをやったことで苦労するのは、ほかでもないわたし自身だ。

媚びるな、という記事は、わたしが媚びをやめたことによって、わたし自身が背負い込むであろう苦労を、汲んでくれているのだろうか。わたしの世界の実践は、わたしが理想とする理論とは、あまりにもかけ離れている。抑圧されている人に理論をふりかざして「こうすべき」というのは簡単だけれど、そこで悪いと指摘されるべきなのは抑圧されている者なのだろうか。わたしにはわからない。どうかすると、それらの記事を書いているライターの方たちの住んでいる進歩的な世界と、わたしが住んでいるまだまだ昭和のような世界が、同じ国での出来事だと思えなくなる。

もちろんわたしの中にもフェミニストはいる。そしてわたしは、物事を円滑にすすめるために笑顔を見せ、お茶汲みをし、お酌をするたびに、彼女を、わたしの中のフェミニストを、ぶん殴っているような気持ちになるのだ。いまではわたしの中のフェミニストは、小さくなってしまっているし、あざだらけでボロボロだ。

毎日毎日、フェミニストとしての理想を裏切るようなことをしないと、わたしはこの社会で生きていけない。少なくとも円滑に社会生活を進めるためには、フェミニストである自分自身を裏切らなくてはいけないことがなんどもでてくる。だから、わたしはわたしが生活しているこの社会で、フェミニストであることは、悲しいほど難しいことだと感じている。

フェミニストである」ために正しいとされる理論と「実際に社会で生きていくこと」という実践の間には、深い断絶があって、わたしはその断絶の中で毎日苦しんでいる。

だから、わたしにとってロクサーヌ・ゲイの「バッド・フェミニスト」は、ただピンクが好きだとか、女性蔑視的な音楽を聴いてしまうだとか、趣味趣向だけの問題ではない、もっと大きい救いだった。「バッド・フェミニスト」は理論と実践の間にある、深すぎるほどの断絶に、少しだけ橋をかけてくれたような気がしたのだ。

わたしがいるところからすれば、フェミニストを自称する必要など全くないなんてことはありえない。むしろわたしは、この世界で、正々堂々としたフェミニストでいることは、なんと難しいんだろうと考えている。

 

・最近の媚びるな案件「おっさんへの“媚び”に得はなし」働き女子が30歳までに知っておくべきこと|ウートピ

この記事は、セクシュアルハラスメントに耐えてしまうことと媚びを混同しているような気がする。セクハラに耐えることは媚びではないし、あからさまな下心を持って近づいてくる年上の男性と、経験の豊富な(マンスプレイン)男性にときめいてしまうこと、それに警鐘を鳴らすことは大切だ。セクハラにはNOと言うべきだし、若い女性に下心を持って近づいてくる年上の男性なんておおよそろくでもない。そこには同意する。

けれども「媚び」という言葉には非常に多くの日常的行動が含有されてしまうから、言葉を生業にしている人々の対談としては、言葉のチョイスが大雑把なのではないか。

個人的には「セクハラに耐えること」「下心を持って近づいてくる年上の男性に毅然とした態度をとること」と「媚びるな」ということは相容れないことではないかと思う。

 

追記: 自分が性差別的な業務をやっていないからといって、「媚びはやめよう」と言ってしまうのはそれこそどうなのかな?別の女性がその仕事をやらされてないかとか、自分が媚びる必要がないのなら他に目を配れるところがあるよね?それがフェミニズムじゃないのかな?自分がやってないからいいって、それじゃ「媚びるな」って書いてるその記事と同じなんじゃないのかな...違うのかな...

 

キャサリン・マンスフィールド『不機嫌な女たち』

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幸せの絶頂にあるとき、しばしば人生というのは、その絶頂にあるものに冷水を浴びせることがあって、むしろそれがわたしの人生らしさなのかななどと、最近では思うことがある。

天にも昇るような気持ちや、幸せな日常に、急にぽかりと口を開ける不幸、死、そして人間の邪な気持ち、邪悪さ、そんなものがキャサリンマンスフィールドの短編にはつまっていて、読みながら背筋がすぅすぅするような気持ちになる。けれどもふと考えてみれば、平穏に思えた日常に急に現れる不穏な裂け目は、わたしたちには馴染み深い。なんだかこのピンク色の薄い紙にどす黒い墨汁を垂らして、そのシミがゆっくりと広がっていくような感覚が病みつきになる短編集だった。

「コクソン」: 異質なるものとの対峙

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わたしはあまり韓国映画に詳しいほうではないのだけれど、ナ・ホンジン監督の作品はとても好きで、『コクソン』もとても楽しみにしていたのである。それで、初日にッ!!見てきましたッ!!

なんかもうずっと緊張しっぱなしで、けれどもその緊張を茶化すかのように思わず笑えるシーンが出てくる。これは一体なんなのか...!!!混乱しながらも、とても面白かった。けれどもわたしはまだ混乱していて、それをちょっと整理したいと思う。

この映画は本当にたくさんの層が重なっていて、ここでわたしが書くのはその層のほんの端っこでも掴めていたらいいなあというようなことだ。面白かったから、もう一度見たいと思っているのだけれど、わたくし、國村ショック(夜になるとあの國村さんを思い出してめっちゃ怖くなる病)によって1週間ほど電気をつけっぱなしでないと眠れなくなりましたので、とりあえずわたしの考えたことをサクッと書いておきます。

 

(以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。)

 

この映画は、様々な異質なるものとの対峙を描いた映画であるとわたしは考える。まず、この映画全体を覆うのは、社会的な抑圧の回帰と、異質なものへの恐れである。

社会的に抑圧されたもの、つまり禁忌はそれこそが異質であり、異質が日常に侵食してくる、それこそがこの「コクソン」という映画だろう。ここにおける禁忌とは、性と死である。そしてそれは、様々な異質の物を通じて媒介される。冒頭で、ヒョジン(娘)によって目撃される両親のセックス、警察署前に現れる全裸の女、日本人によってレイプされた女、日本人の家に置いてある春画の本、これらはすべて抑圧された性に結びつく。そして、村で次々に起こる殺人事件、これは人間にとって最も異質である死を、哭谷に導き入れるのである。

わたしはここで、「コクソン」を「父と娘の関係」から読み解いてみたいと思う。確実に、物語のプロットの1本の大きな柱には、この父と娘の関係があるだろうと思うのだ。

 

1) 娘の成長を恐れる父親
娘に悪霊がとりつき、そして娘が異質のものになってしまうというプロットは、思春期の娘の成熟を、娘がいままでとは違うもの(=異質のもの)になってしまうという父親の恐怖心と重なるのではないか。つまり、思春期の娘の性的な成熟の過程が、父親がそれを恐れるあまりあの悪霊憑きとして表現され、その悪霊に対する恐怖は、大人の女性となってしまう娘に対する、父親の恐怖心とも捉えられるだろう。

冒頭で、車での両親のセックスを目撃することは、「抑圧された性」という禁忌の目撃である。娘が性という禁忌に触れたことを父が知ったことを発端に、父親には娘が性的に成熟した、大人の女性になってしまう、その恐怖がつきまとうようになる。

そして、娘が禁忌に触れたことがきっかけとなり、「不可解な死」の不安が、門の内側、つまりジョングの家に持ち込まれるのである。

 

2) 肉体的な成熟と門
もちろん娘の大人への成長には、肉体的な成熟も含まれるだろう。劇中では明らかにされていないが、おそらく10歳前後であるヒョジンも、成長の過程として初潮を迎えることが充分に推測される。父の娘の成熟への不安として、この初潮への恐怖もあげられるだろう。

たとえば病で伏している娘の部屋で、娘の異変を探す父は、なぜか彼女のスカートをめくり、その印である「湿疹」を探す。そして娘の臀部に湿疹を発見するのである。なぜ首元や手ではなく、娘の足を確認したのだろうか?これは娘の初潮への不安と、臀部の赤い湿疹は、初潮を表しているのかもしれない。

女性嫌悪的な社会において、女性の生理はしばしば不浄のものと見なされる。娘の生理を恐れる父の恐怖は、娘が不浄のものとなってしまう恐れをも内包しているのである。

また、娘の性的な成熟への恐怖は、娘による「知らないおじさんが、わたしの部屋のドアを叩いて、入れてくれという」という娘の発言にも表れているだろう。後述するが、建物の門やドアはしばしば、女性器のメタファーとしても捉えられる。このドアを叩いて、入れてくれという、その発言は、ゆくゆくはヒョジンの経験する性行為を暗示しており、これによって父親の不安はさらに増していくのである。

「コクソン」では、ジョングの住む家の門がうつされるショットが多くあったように思う。この門は、フロイトによれば、女性器の象徴ともされ、またその門から中に入ったジョング宅は子宮の暗喩とも捉えることができるだろう。

そう考えると、物語終盤での門での出来事はこう読み取れるかもしれない。

白い服を着た謎の女、これもフロイトによれば白い服は女性の象徴であり、またわたしたちにとって馴染みの深い白い服といえばウェディングドレスが連想される。つまり、この謎の女は、成長した娘の経験する、結婚を暗示しているとは捉えられないだろうか。この謎の女は、不浄を取り払おうとする祈祷師を門の中に立ち入らせない。そしてその際に、祈祷師は不浄のものである血を、門の前で流す。結婚を暗示する白い服の女は、娘の成熟を妨げようとするものから、ヒョジンを守るのである。何者も、娘の成長を止めることはできないのだ。

そのあと、白い服の女は、ジョングにこう言う「門に結界を張った。お前が立ち入らなければ、家族は死なない」と。つまり、娘の成長を妨げようとしなければ、家族は守られるということである。しかし、大人の女、しかも結婚を暗喩する女からの忠告を、当然のように、成熟した女性性を恐れるジョングは聞こうとしない。

ジョングが家の門に足を踏み入れると、門に張られていた結界にぶら下がっていた青い葉をつけた小枝は枯れる。ジョングは、自ら娘の成長を阻止するために、その門の中に入り、そして、娘自身に殺される。何者も、娘の成長を止めることはできない。成長するために、娘は親殺しをするのである。

そして、子宮を暗喩するジョング宅は、血で真っ赤に染まる。これは娘の初潮を暗示するとともに、娘の親離れを示すのだ。子離れができない親は、娘の手によって殺される。

「コクソン」は、父と娘の関係性から、娘の成長と、それを恐れる父親の物語、そして、成長する娘の、親離れの物語とも読み取れるのではないだろうか。

 

*あとがき
ここまで書いて、ちょっと自分の読み解きが気持ち悪いんじゃないかとすら感じております...でもおそらくこの映画は、フロイト的な読み解きもかなりできる映画なのでは...と思うので、楽しんでいただければ幸いです。

わたしの青春カムバック!「トリプルX:再起動」

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※この記事は、わたしの中二病時代の(思い込みに満ちた)センチメンタルな思い出と、トリプルX: 再起動のネタバレをおおく含みます。ご注意ください。


わたしは中学、高校時代、ヴィン・ディーゼルが大好きだった。まわりの友達が、ジャニーズか、ヴィジュアル系バンドに狂っていたとき、わたしはなぜかヴィン・ディーゼルに狂っていた。

ワルの走り屋 ワイルドスピードのドム、宇宙の暴れ者 リディック、そしてポップカルチャーの寵児 ザンダー・ケイジ、心優しい巨大ロボット アイアン・ジャイアント、彼の演じるキャラクターはすべて、めちゃくちゃかっこよくて、わたしはとにかくヴィン・ディーゼルに夢中だった。

学校から帰ると(わたしは部活動する暇があったら映画を見たり、本を読んだり、好きなバンドの追っかけをしたいといという理由で帰宅部だった)すぐに海外のヴィン・ディーゼルのファン掲示板を読み漁り、彼の情報を入手し、その頃アメリカ在住の方が運営していたヴィン・ディーゼルの日本語ファンサイトに入り浸っていた。(彼は、ワイルドスピードで共演して付き合うようになったミシェル・ロドリゲスと別れ、ブリトニー・スピアーズと浮き名を流したりしていた)

ちょうどわたしがヴィン・ディーゼルに夢中になっているころ、リアルタイムで劇場に足を運んだのが「トリプルX」だった。

ご想像のとおり、わたしはザンダー・ケイジに夢中になった。彼が着ていたムートンファーの(ザンダー・ケイジのトレードマークの!)コートに似たものを探し求めて購入し、ザンダー・ケイジがはめていた「X」を模した指輪と似たデザインに指輪をサン宝石で買い求めた。白のタンクトップを買い求めた。おそらく当時、チャンスがあれば、わたしは首にxXxとタトゥーを入れていたことだろう。(近くに気軽に入れるタトゥーパーラーがなくてよかった。)

ザンダー・ケイジは最高だった。彼はアウトローで、正統派のスパイたちとは違って、エクストリームスポーツの達人だった。スケートボードスノーボードを駆使して、世界を救った。ザンダー・ケイジの活躍は、全くスマートじゃないけど、わたしはザンダー・ケイジに夢中だった。とはいえ相手役のアーシア・アルジェントもめちゃくちゃかっこよくて、わたしは大人になったらこういう(どういう?!)女性になるんだと決めていた。

ここまで書けば、この、言ってしまえば大味のアクション映画「トリプルX」を、わたしがどれほど好きだったか、わかってもらえるだろう。言ってみれば、この映画は間違いなくわたしの青春の1ページで、今見直して「おやおや...」と思うことが多々あったにしても、この映画はわたしにとって、ほんとうに思い出深いものだ。

(ここまで書いたものを読んで、自分に友達がほんとうに少なかった理由がわかる気がしている)

そして、トリプルXは主役をヴィン・ディーゼルではなくアイス・キューブに変えて、続編がリリースされたけれど、わたしは正直、なぜトリプルXヴィン・ディーゼルがいないのか理解できずに、不満だった。わたしにとって、ザンダー・ケイジがいなきゃ、それはトリプルXじゃなかった。(思い返すにつれ、ほんとうにめんどくさい高校生である)

ときはたち、わたしはヴィン・ディーゼルの大ファンであったことを、少し恥ずかしく思って、大人になった。しかし、ヴィン・ディーゼル主演で、トリプルXのリブートが出ると聞いたとき、わたしの黒歴史というパンドラの箱が開くのを感じた。つまり、ものすごい心が高鳴ったのだ。ザンダー・ケイジが!!!かえってくる!!!密かに、興奮した。わたしのティーン時代のヒーローが、満を持してスクリーンにかえってくるのだ!!

そして、満を持して、映画館にむかった。共演には、最高のアクションスター ドニー・イェン、ハンサムでセクシーなルビーローズ、チャーミングなトニー・ジャー...これを聞いただけで、ものすごい期待してしまう。そして、映画は、たしかに大味かもしれなくて、たくさんの欠点があることもたしか(ていうかめちゃくちゃバカみたいな台詞もいっぱいあって腹抱えて笑ったよね...「世界は心の中にある...」とかドヤってたけど、正直意味わからないし、アイス・キューブの「グーチョキパーよりグレネード」も、言ってる本人めっちゃドヤってたけど、意味が全然わからなかった大好きです)だけれど、それでも、最高だった。もしかしたら、大人になったわたしは、このリブートを好きにならないかもしれないとすごく心配していたのだ。でもそれは、不要な心配だった。

映画館でみた「トリプルX: 再起動」では、ザンダー・ケイジは、いや、トリプルXは、アウトローたち、マイノリティたち、はぐれ者たちのために復活していた。

トリプルX:再起動」には、普段ハリウッド映画で見ることがない人種的マイノリティたち(中国、タイ、インド、ヒスパニック)が、トークンという形ではなく、映画のメインキャストとして、Xの仲間たちとして登場し、アデル(ルビーローズ)はセクシュアルマイノリティだ。そう、はみ出し者のエージェントの物語だったトリプルXは、リブートとして、ハリウッドにおけるはみ出し者、おおくの場合、映画に表立って出ることのない者たちをトークンではなく、Xの仲間たちとして取り入れているのだ。

そして、後方支援担当のベッキーの扱いも、最高だった。雑に扱われがちな後方支援人員に「わたしは屋内であなたたちを守らないと。死なれちゃ困るから。」と言われたら、胸が熱くなってしまう。(結局、後方支援担当に感情移入しがち...)外に出るエージェントたちもかっこいいけれども、それを守る後方支援する者たちも、同じように重要なのだ。(ザンダー・ケイジがポール・ドノヴァンをおちょくるたびに、クスクス笑うベッキーには、たぶんポールに嫌なこと言われたり、現場に出ない人間は重要じゃないみたいに言われたりしていたんだろうな...とまで想像してしまった)

ここまで言って気がついたけれど、とにかくドニー・イェンのアクションはめちゃくちゃかっこよくて、期待通りにルビーローズは抱かれたいほどハンサムだし、ザンダー・ケイジはザンダー・ケイジなので、こんなブログを読んでる暇があったら今すぐ映画館にいってもらいたい。この映画について、多くを語るのは野暮だろう。とにかく最高だった!!!!!!わたしはザンダー・ケイジの復活を映画館で、そしてXの最高の仲間たちをスクリーンに見ることができて、ほんとうに嬉しかった。

そしてなにがいちばん嬉しかったか、それはザンダー・ケイジが復活することでなかったことにされてしまいはしないかと、少し気がかりだったアイス・キューブが「最後の切り札 ダイアル9」として登場することだ。

わたしはジェイソン・ボーンシリーズで、ジェレミー・レナーがシリーズを引き継いだ「ボーン・レガシー」が好きだったのだけれど、どういうわけかジェイソン・ボーンが復活したとき、アーロン・クロスのことはなかったこととされているように感じてすこし悲しかったのだ。だから、続編に納得していなかったとはいえ、アイス・キューブ演じるダリアス・ストーンがなかったことになったら、すこし悲しいと思っていたけれど、仲間に手厚いXは、そこもちゃんとケアしてくれていた。ありがとう!!ありがとう!!!

高校生の、続編に対して不機嫌だったわたしに教えてあげたい。ザンダー・ケイジは、最高の仲間を連れて戻ってくるよ、と。そして大人になったあなたは、映画を見ながら笑みが止まらず、スキップをしながら家に帰って、パンドラの箱を開けて、中高時代の、ヴィン・ディーゼルの熱烈なファンガールだった思い出を、日記のようにブログに書くよ、と。

だがしかし、ひとつ言わせてもらいたいのだけど、ザンダー・ケイジが女にモテる、ザンダー・ケイジといえば女だ!という設定、そろそろいらなくはないか?ヴィン・ディーゼルは海坊主にしか見えないし、最後セレーナ(ディーピカ・パードゥコーン)とキスをする意味もわからない。イギリスで美女たちに囲まれるザンダー・ケイジも不要だと思う。ザンダー・ケイジは、世界を救うためにペニスを使う必要はない。ザンダー・ケイジはセックス・シンボルになる必要はない。セクシー美女たちをはべらせる島のマフィア(?)はクリシェ的でつまらないし。でもさ、びっくりすることに、この映画ベクデルテストはパスするんだぜ...!
わたしは映画館でほんとうに楽しかった。やっぱりザンダー・ケイジはかっこよかった。最高だった。

【翻訳】ロクサーヌ・ゲイ「バレンタインデーを嫌うのを、やめてみようと思う」

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明日はバレンタインデーですね!!

わたしも毎年、このころになると「またか...」という気持ちでバレンタインデーやそれにまつわるものを嫌っています。

いまだって、わたしはバレンタインデーに対して素直になれない。

それはたぶん、ただ愛を伝え合う記念日である以上に、ここ日本では、バレンタインデーというものにすら性別的役割が押し付けられているからなのかな、と思ったりもする。

わたしは社会人7年目だけれども、いままで会社の人にチョコを渡したことがない。わたしの上司は憎たらしすぎて、あげるチョコなどないのだ。

しかし今年、はじめて部署に顧問と先輩が入って、この2人がとてもよくしてくれる(今年、わたしは会社に入ってはじめて、2人が誕生日を祝ってくれたのが、すごく嬉しかった)ものだから、なんと!自発的にチョコをあげてみようという気になったのである。

あぁ、こういうものなんだな、と思った。この前書いたお酌の記事もそうだけど、押し付けられるものは嫌だけど、自発的にでた行動は、全然嫌じゃなかった。というわけで、わたしは、ほんの少しだけ、バレンタインデーと和解ができそうである。

というわけで、みなさまへのバレンタインプレゼントとして、2015年にロクサーヌ・ゲイがガーディアンに寄せたバレンタインデーについてのコラムを翻訳してみました。(何か問題があればすぐに取り下げます)ぜひお読みいただければ幸いです。

 

(原文)

I am giving up hating Valentine's Day. Celebrating love is a beautiful thing | Roxane Gay | Opinion | The Guardian

 

(翻訳)

ロクサーヌ・ゲイ 「わたしはバレンタインデーを嫌うのをやめたい。愛を祝うことは、美しいことだから」

 

わたしはバレンタインデーを、いつも苦々しく思っていた。恋人がいても、バレンタインデーが嫌いだったし、独り身でも、バレンタインデーが嫌いだった。愛とロマンスの企業化と、バレンタインデーが広く階級的消費者主義から搾取をするために作られたマーケティング的な記念日であることをわたしは罵ってきた。わたしはショッピングセンターにある宝石店のコマーシャルに対して呆れたように目を回した。わたしはすべてのキスが、宝石から始まるわけではないと知っているのだ。(*訳注 Kay Jeweryという宝石店の"Every Kiss Begins with Kay (すべてのキスは、Kayからはじまる)というキャッチコピーをもじっている)

今年、わたしはバレンタインデーにすすんで身を任せてみようと思う。だって、根本的なところをつきつめれば、愛を祝福するための記念日を嫌うために多大なエネルギーを費やすのは、ものすごく疲れることだから。

わたしは結婚したことがない。将来結婚するかもわからない。結婚したいとは思っているけれど。なぜ結婚してないのかと聞かれたときには、わたしの両親は幸福な結婚生活を42年も続けているんです、と説明する。だから、結婚という誓いに対してのハードルがものすごく高く感じるのだ。

でもわたしはかわりに、こう打ち明けよう。わたしはとても長い間、愛という概念に恋をしていた。何があっても無条件にあなたを愛し返してくれる人を見つけられるということ、完璧にあなたを愛してくれて、足元からあなたをすくい上げてくれるような。そしていちど愛を見つけたら、あなたの世界すべてが完璧にうまくいくのだ。わたしは人格形成期にたくさんのロマンス小説を読みすぎたのだ。わたしはロマンティックコメディを偏愛している。わたしはなぜロミオとジュリエットがあのような最期を迎えることになったわけを、理解できる。

わたしは愛という概念に恋をしていた。だからわたしは自分の恋愛関係においても、精巧なフィクションを作り上げたのだ。どんな恋人とでも、わたしは愛にとてもよく似たものを分かち合っているのだ、と自分に信じさせるためのフィクションを。わたしは「愛している」と、まるで言葉が通貨であるかのように言う。その言葉がわたしの情熱の対象が、わたしの気持ちに純粋に報いるようにしてくれるかのように。しかしいつも、そういう関係はうまくいかない。

もしくは、こう打ち明けることもできるかもしれない。わたしはロマンスに関連するアドバイスを、あまりにも信じすぎていた。わたしは「THE RULES 理想の男性と結婚するための35の方法」のようなものを真剣に信じていたし、愛がこんなにも信じ難く、突発的で、びっくりするほどメチャメチャなものだとは、想像すらしていなかったのだ。

わたしは愛にまつわるいろんなことを知っているし、わたしが愛について知っていることについて自信があった。だから、わたしが愛について知っていることに矛盾することはなんでも、そんなの嘘だろうと考えたのだ。いまでは、わたしは愛を知っているし、愛については何も知らない。かつてわたしが自信を持って知っていたことは、なんの意味もなさなかったのだ。

わたしは愛する。けれども、どう愛されたらいいのか、どう人から見られるか、そしてわたしがいかにダメな女性かを知ることについては、少し自信がない。なぜならそれには身をまかせることが必要になるから。わたしは完璧じゃないけれども、どちらにせよ、もしかしたら誰かの情熱に値するのかもしれないと認めることが必要になるからだ。

ときどき、見知らぬ人が、愛しているとわたしに言う。そいいう時、わたしはく震え上がる。だって、彼らがわたしに対してそんなに強烈な感情を持てるはずがないのだから。まあ、少なくとも、わたしは自分にそう言い聞かせる。その一方で、たしかに彼らがわたしを確かに愛している可能性も受け入れなければいけない。彼らが、自らその言葉を選んでくれたこと、そのことを尊敬しなければいけない。わたしはそのことにも、身を任せなければいけない。

愛というのは、強烈な感情で、そしてとても力強い言葉だ。でもわたしたちは、愛という言葉を軽々しく使ってしまう。「わたしはチャニング・テイタムを愛してる」わたしはよくこう言っている。わたしは、チャニング・テイタムの人格とルックスが大好きなのだ。(女神よ、あの首がたまらないのです!)でもわたしは、本当の意味で、彼のことを愛しているだろうか?それは違うだろう。わたしは自分の電話を愛してる、この前見つけた靴を愛してる。睡眠を愛してる。愛にも色んな尺度があるのかもしれない、と思う。

わたしは、いつか愛という言葉を軽々しく使うことをやめるようになるのだろうか?わたしはそんな無謀なことは気にしないけれど。でも、その言葉を注意深く使えば、わたしの意図はより明確になる。その言葉を使うとき、わたしは確信が持てるのだ。その確信がとても弱い地面に立っているものだったとしても。つまり...目と目があって、わたしは怯える、わたしの心は躍り、そして目をそらせなくなる。