#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

3月の読書

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もとはといえば読書ブログなのに気づいたら手早くかける映画の感想ブログになってない?!ということで月ごとに読んだ本まとめようかなと思いやした!読書すごいしてると思われがちなわたしだけど、全然そんなことないんだぜ!みんな安心して!!

 

ジョジョモイーズ「ワン・プラス・ワン」

YAだし気軽に読めそうだから旅行のお供に、と持って行ったんだけどこれがものすごく良い本で、旅行中夢中で読んだ上に妹の家でボロ泣きしました。

どん底からどうにか抜け出そうとするけど、人生そんなに甘くないっていうめちゃくちゃつらい現実を読者に突きつけつつも、ラブストーリーという軸で読者を甘やかしてくれる傑作でした...

 

レイ・ブラッドベリ華氏451度」

ブラックパンサー以降、わたしはもうマイケル・B・ジョーダンの虜なわけですよ。その彼がモンターグ役でHBO製作映画化!てきいたら再読せざるを得ないよね....で、ディストピアものと呼ばれるジャンルもの読むたびに「ディストピアっていうかもはや"今"じゃん」て思うんだけど...さ.....ぜんぜん他人事みたいに「えー!やだー!こうなったらこわーい」みたいなテンションではよめなくて「いやいや、もう片足突っ込んでますがな」というかんじよね...

 

ケン・リュウ編「折りたたみ北京」

わたしSFって苦手なんですよ。SFって読むとき脳みその理数系の部分を使うと個人的に思ってて、わたしの脳みそってその理数系の部分が虚無になってるんですね。だからSF読んでも大抵よくわかんなくて終わっちゃうんだけど、ケン・リュウはわたしの脳みそのエモの部分をガンガン刺激してくるので大好きなんです。そのケン・リュウが中国SFを選出したアンソロジーなんですけど、むちゃくちゃエモくてよかったです....あとケン・リュウの「作品の中に中国国家に対する作者のメッセージを読み取ろうとするのは読者のエゴだ」みたいな前書きが最高でした。たしかに当てはめたくなっちゃうよね....という自戒もこめて。

 

ヤア・ジャシ「奇跡の大地」

詳しくは別の記事にまとめましたが、アフリカ大陸から連なるある一族のひとちひとりの人生を断片的に切り取っただけでこんなにも圧倒的な力のある長編を書き上げて、しかもこれがデビュー作って!!これからの彼女の活躍がとても楽しみです。マーベル映画「ブラックパンサー」を見たあとに読めてとても良いタイミングだった。

 

チゴズィエ・オビオマ「僕たちが漁師だったころ」

さめやらぬアフリカ熱のなか、読みました。こちらはアフリカが舞台になっているんだけど、このひとつの物語がナイジェリアという国家の歴史に重なり合うという解説を読んでハッとした。オビオマもこの作品(デビュー作)でブッカー賞ノミネート、1986年生まれって、すごい。あとアフリカ文学は越境の文学であるということ、言われてみればたしかにそうなんだよね。もういまや「XX(任意の国名が入る)文学」何ていう概念は古臭いのかもしれない。

 

 

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Netflix版「クィア・アイ」は新しいか

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もうTLでその名前を目にしない日がないくらい話題のNetflix版「クィア・アイ」、ほんとのこというとわたしはこのての番組に対してものすごく懸念があったので敬遠していたんだけれど、あまりに大絶賛の嵐なのでおっかなびっくり見てみたんですよ。そしたらこれが、もうすごくよかったんですよ...1話から滝のように泣いたし、ファブ5は外見や部屋を改造するだけじゃなくて、みんなに自己肯定感を与えてくれる。そしてファブ5の面々の魅力的なこと!わたしも改造してもらいたい...と思ってしまうこと必至である。ファブ5がこの番組を通して伝えるメッセージは、自己改造だけにとどまらず、お互いを理解すること、たとえばその改造を通して異なる価値観を持つ相手とも真摯に向き合って理解していく姿であり、分断が叫ばれるいまこそ見るべき番組であるように思う。

でも、「クィア・アイ」を視聴する上で、ある種の注意意識が観客から欠如してしまうと、ちょっと問題なのではないかと思う。つまり、この番組は「あえて超ハンサムで超センスがよくて超優しくて超素敵なゲイ男性5人」を選んでいるということ。あまりにファブ5が魅力的すぎて、視聴しているとなんかもうそういう意識が吹っ飛んでしまうんだけど、これって何も考えずに見てしまうと、(まあもちろんみなさんわたしより賢くで問題意識も持ってて懸命だろうからお持ちであろうとは思うんだけども)「ゲイ=センスが良くて、ちょっと辛口に批評してくれるけど、ダメなわたしを受け入れてくれて、自己肯定感や元気をも与えてくれる」っていうステレオタイプの再生産に繋がってしまいかねないとわたしは思う。

このおしゃれ云々というゲイ男性のイメージは昔からあるゲイ男性に対するステレオタイプであるとわたしは思っていて。(日本でもメディアに登場するゲイ男性はある種のステレオタイプに沿う人たちしか目にすることがなかったりもするよね)もちろんそのステレオティピカルなゲイ男性が架空の存在だとも、そのキャラクターに合うファブ5の面々がいけないとも言うつもりは毛頭なくて(だってファブ5のみんなは実在する人間であって、彼らはそれぞれ、その個性や人間性よってとても魅力的で素敵な人たちであるから、彼らを否定するなんてできるわけがない)だけども、そのステレオタイプが、その範疇にいない周縁の存在をなきものとしてしまうことも事実であることは認識していなければいけないと思う。(たとえば「ムーンライト」という映画がいままで描かれなかったようなゲイ男性を主役に据えたことがあの作品が評価された要素のひとつであるともわたしは思っていて、だからその描き方の多様性もいまは求められるということ)

たとえばカミングアウトしていなかったゲイ男性を変身させる回(S1E4)では、着る服に悩むAJをモニターで見守るジョナサンが「こんなに着る服を選ぶのに手間取るゲイなんてはじめてじゃない?!」というのだけれど、そんなわけない。オシャレじゃないゲイだって、センスのないゲイだっているはずだ。AJはホモフォビアを内面化してしまって苦しんでいるだろうはずなのに、この発言は視聴者にもステレオタイプを強烈に(ネガティヴな意味で)意識させてしまうだろう。わたしはともすれば、この番組を純粋に楽しんで消費してしまいそうになる。たしかにこの番組は面白いし、感動する、ファブ5は素敵すぎる。わたしもファブ5のことが大好きだ。だけど、わたしはこの番組によって強化されてしまったかもしれない、そのステレオタイプによって苦しむ人がいることも、忘れたくはない。

あと難しいのはファブ5は誰かを演じているわけでもなくて、彼らは彼らなんだよね。だからクィア・アイの番組として、ショウとしての「ステレオタイプの消費」を批判しようとするとき、わたしはその刀で大好きなファブ5のことを斬らなきゃいけなくなってしまう。なんかもうつらくなってきた。(まあこんなブログ書かなきゃいいだけなんだけどさ!)

あと海外のレビュー見てると「多様性を取り入れたクィア・アイの新キャスト」って書いてあるけどいわゆる黄色人種のゲイ男性はここでも透明化してしまっているという問題もある気がするな...あとレズビアンが5人集まった番組っていうのは見ないよね。クィアっていうのは「ゲイ男性」だけを指すものではなく、様々なセクシュアル・マイノリティを表す言葉なはず。となれば、もっと番組の視野が広がってもいいのではないかな、と思ったりもして。

あと日本版Netflixは、なぜこの番組にオネエ言葉の字幕をつけたのか。ファブ5は別に普通に喋っているんだから、わざわざ視聴者をステレオタイプのほうにミスリードするような字幕をつけるべきではないとわたしは思います。

 

ところで、わたしは毎回何かに文句をつけるたびに「ステレオタイプな描写があってもいい」でも「ステレオタイプの再生産はもうそろそろいいのでは」っていうダブルスタンダードみたいなところにはまりこんで身動きが取れなくなってしまう。もう何も言わないほうがいいのかもしれない。なんていうか...いまはこのクィア・アイが楽しいし最高だと思う!でもこれがベストオブベストではないし、これからもっと良いものも作れるんじゃないか、って気持ちでこういうこと言って、楽しんでるひとたちの気持ちに水を差してしまう自分がときどき無性に嫌になったりもする。

 

追記: いまふと思ったんだけど、わたしがここで思う消費っていうのは、結局ゲイ男性のことを「マジカル・ゲイ」みたいな側面で消費してしまうことに対する危惧だったりもする。この番組の性質上、それはどうしようもないことだけれども、その意識なくこの番組を鑑賞することで、そのわたしたち視聴者にとって都合の良い、そして感動を与えてくれる「マジカル・ゲイ」としてのキャラクターを無意識に消費してしまうことは危険であることをわたしは常に意識していたい。

韓国ドラマ「トッケビ」雑感

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「新感染」もとい「釜山行き」を見てからこっち、コン・ユにハマっている。「釜山行き」を見たとき、さしてコン・ユに興味はなかったのだけどなんとなくウィキペディアで検索したらあだ名が「キス王子」と書いてあったんである。「キス王子」って!!!!!!ヒィーーーーーー!!!!となってまあ一気にきになる存在になってしまったわけなんですけどね。変な理由だよね。

 

もともとストーカー気質のファンガールなので、気になった人の作品は全部見るじゃないですか。わたしも見ました「あなたの初恋探します」(謎の一人二役に超混乱したけど、コン・ユさん超可愛かった)、「サスペクト」(アクションもできるコン・ユさんかっこいいかよ...)、「トガニ」(コン・ユさんが、とかじゃなくて映画として名作。必見です。)、「ビッグ」(コン・ユさんのキュートネス炸裂してて死に散らかした)、「密偵」(これもすごく良い映画だった、コン・ユさんに写真撮られたいかよ...)というかんじでですね、短期間にいっぱい見たし、コン・ユさんが出てる映画にはなんというか全部ちょっとずつつながりがあることもわかった。トガニではコン・ユさんが鹿を轢くところから始まるけど、新幹線も鹿が轢かれるところから始まったりとか、新感染も電車が舞台で密偵も電車でのシーンが大きい意味を持ってたり。陰謀論好きのファンガールなので「もしかしてコン・ユを起用する製作陣もしくは監督はそういう意図を持ってやってんのかな」ってニヤついております。(ダンテ・ラム作品におけるニック・チョンてじつはそれぞれの映画で演じるキャラクターが他作品の別バースみたいなかんじで、それぞれキャラクターが繋がってるじゃない?そういうかんじ??)

  

それで、今回リリースと同時におっかけて見てるドラマがありましてね、「トッケビ」っていうんですけど、日本リリース前にタンブラーで画像を探し漁ったらもう沼の予感しかしなくてですね、ヒィヒィ言いながら待ってたんですよ。レンタルリリース当日とか、もうソワソワしちゃって、仕事が手につかないんですよ。時計見ながら会社出るまであと何時間、とかカウントダウンしちゃって。恋かよ!!!!!!!!!

 

で、この「トッケビ」をここのところビンジウォッチしているのだけど、どうも気になるところがあるんですよ。またいつもお決まりのアレ、好きなのに重箱の隅をつつかずにはいられない、わたしの悲しい性なんですけれどもね。今日はそれについて書きますね。

 

(まずトッケビを雑にあらすじ紹介しますね)

登場人物は、コン・ユ=長生き妖精おじさん(900歳)、イ・ドンウク=記憶を失った死神(絶賛恋煩い中)がでてきます。妖精おじさんは、前世で武将だったから人いっぱい殺した罰として死ねない運命を背負ってて、死神は逆に前世で何か業が深いことをしてしまったから前世での記憶を失って、死神をやってるんですね。そして、妖精おじさんを殺してあげられる運命を背負った女の子(高校生)がウンタクです。そんで、妖精おじさんと死神が同居して、そこにウンタクも転がり込んで....という話。

 

韓国の民話に登場する悪戯好きなトッケビというキャラクターと、西洋のものとは違う死神などを登場させたこの作品は、ものすごくうまく韓国のアミニズムを現代のエンターテイメントにアップデートさせていると思うんですね。それはすごくうまいと思う。あとメタな視線でセルフパロディとかやってるんですよ、そういうのほんとすごくよくできてた!おもしろかったんだよね!けれども...というところで書きますね。(言っておくけどわたしトッケビ好きだったよ!おもしろかった!でもここで胸のつかえをおろさせてください....No Offenceです!)

 

1) ウンタクのキャラクター設定

言ってしまえば「トッケビ」というのは韓国版シンデレラとも言えると思うんですが、ウンタクの人生はまさにシンデレラの物語と重なります。母が死に、引き取られた先(意地悪な叔母と兄妹がいる)でイジメられます。幽霊が見えるからと学校でもイジメられ、どこにも居場所がない。けれども、彼女は「トッケビの花嫁」という運命を背負っていて、そのトッケビ(コン・ユ)がシンデレラでいうところの白馬の王子様になるわけです。ウンタクは高校生という純真な年齢からか、自ら「トッケビの花嫁」という役割に自らの居場所を見つけようとするんですね。彼女がトッケビと死神の家においてもらえるのも、彼女が花嫁だから。でも高校生で「花嫁」というところに自らの役割と意義を見出してしまうドラマって、ちょっと旧時代的ですよね。いま叫ばれているのは旧時代的なディズニープリンセスというステレオタイプから脱却した新しいヒロイン像であるはずなのに。もちろんそういう物語があっちゃダメってことではなくて、花嫁に役割を見出す話があってもいいとわたしは思う。でもやっぱりヒロインといえば、王子様を待つ受け身の物語が多い中で、そのステレオタイプの再生産ばかりがなされてしまうことには、注意を促していきたいとわたしは思うのね。そんでさ、その「花嫁」という役割ってじつはものすごい危ういところに立ってるわけじゃないですか。実際ウンタクだって、花嫁じゃないってなったら家を追い出されるかもって心配してる。だからなんだ、あれだな、わたしもある程度年齢いってるから、高校生の女の子が「わたしがトッケビの花嫁だったら、居場所ができる」って考えてるのが辛くなっちゃうんですよ。あなたの人生、花嫁以外にいっぱい幸せになれる選択肢はあるんだから、ってね、自分の足で立てるようになったら好きなことできるんだよ、って。もうなんだ手紙でも書くかって気持ちになっちゃうんですよね。せっかく民話を現代にアップデートしたのだから、そういうヒロイン像をアップデートしようという気概が見てみたかった...などと思うのです。

 

2) ヒロインと相手の年齢差

そんでそのシンデレラ物語の王子様にあたるトッケビなんですけど、不死の罰にあっているので実年齢900歳、見た目はコン・ユなので35歳といった塩梅です。で、その花嫁が高校生(3年生、物語後半からは大学生になります)なんですよね。正直なところ、35歳(900歳)のおじさんと、高校生が「わたしがあなたの花嫁!」「きみがわたしの初恋だった」とかやってるのね、これ現実にあったらすごいダメなやつじゃないですか....かといってわたしは表現狩りをしたいわけではなくって、なんていうか、実際にひとまわり以上年の離れた男性と少女には明らかな権力勾配が存在していて、その関係は搾取/非搾取の関係に陥るし、現実問題として未成年が搾取されるじゃないですか...それをね、なんの批判的目線もなく「花嫁なの!」とかやってしまうの、やっぱり旧時代的すぎると思うんです。 ここ、ドラマ見ていてもかろうじて許容できるようになっているのは、ひとえにコン・ユの演技(というか配慮)の賜物であると思う。抱きしめたり、キスをしたりっていう(まあでもアウトだと思うけどね、だって高校生と35歳だよ...そのフィクションどうやって楽しめばいいのよ...楽しむってつまり消費することじゃん....)フィジカルな接触に対して、ものすごく性的にならないように配慮してるのが見てて伝わってくる。彼はものすごく考えた上で、演じていたのだろうなと、役者としての素晴らしさは感じました。けどもねー、ポリコレって言いたくないんだけど、やっぱり現代に作られたドラマなら、無邪気に高校生とおじさんをくっつけてしまってはちょっと甘いんじゃないかなって思う。

 

で、ここでさ、「ビッグ」はどうなのとも思ってしまうわけじゃん。中身は高校生のコン・ユが、学校の先生と好いたの腫れたのってやるわけじゃん。正直「ビッグ」だってめっちゃ面白かったんだよ、毎日それだけ楽しみに日々暮らしてたよわたしは....でもさ、ダメだよね...性別関係なく、未成年と成人がカップルになるっていうのは、それには問題があると認識しなければいけないよね。(いまわたしは血の涙を流しています)

 

なんか煮え切らないポストになっちゃったけど、思考の断片として投稿しておきます。こういうのなんも考えずに楽しめたらよかった、そうなってしまう自分がすこし悲しい。

 

故郷を切望する物語としての「ブラックパンサー」

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ブラックパンサー」を見たその足で、書店に寄ってヤア・ジャシの「奇跡の大地」を買って読んだのだけど、まったく関係のなさそうなこの2つの物語がわたしの中でものすごく結びつきあったような気がしたのでその話を書きたいと思う。あとその話書いてたらブックリストができたので「ブラックパンサー」を見たあと読むべき4冊のブックリストを記事のおしりにつけました。わたしのブログは読まんでいいから本を読んでくれ。(本のネタバレはしてないけど、ブラックパンサーのネタバレしてます)

 「奇跡の大地」の作者ヤア・ジャシは1989年生まれのケニア系アメリカ人で、「奇跡の大地」がデビュー作である。それで、この「奇跡の大地」っていうのはアフリカで生まれた異父姉妹からずっと家系図が追いかけられて、かたやアフリカに残った家系と、かたや奴隷としてアメリカに連れてこられた家系の、その子孫たちの物語が語られるんですね。ものすごいと思うのは、それぞれの子孫たちの話は数ページしか語られないし、彼らの人生のすべてが語られるわけではないのに、その語り口や語られることによって、アフリカからアメリカまで、そして奴隷制のはじまりから現代までを圧倒的な物語として立ち上ってくるんですよ。(読んで!!!!!)

「奇跡の大地」の原題は"Homegoing"なんですが、"Homegoing"というのは、アフリカンアメリカンの葬儀の伝統的な儀式で、亡くなった人が天国へ戻ることを祝福するという儀式で、それでこのタイトルは「奴隷たちは亡くなることによって、その魂が故郷アフリカに戻ることができる」という信仰からとられているんだそう。(これ知って「奇跡の大地」読むと最後死ぬほど泣いてしまうんだけど...)

この「アフリカに戻る」という話を聞いてトニ・モリスンの「ソロモンの歌」を思い出したりもして。ここでもアフリカへの回帰について描かれていたんだよね。彼らにとっての故郷は、アフリカであり、故郷への回帰を切望しているということが根底にあると思う。

 で、「ブラックパンサー」なんだけど、わたしあれはアフリカにあるワカンダ国の王子の話ではなくて、アフリカンアメリカンであるエリック・キルモンガーの"Home"(故郷)の話だったと解釈していて。これは、あのオープニングの父親に故郷の話をねだるのはワカンダですくすく育ったティチャラではなく、エリック・キルモンガーだということからも明確に示唆されていると思う。つまりエリックが"Homegoing"する物語であるということ。

だから、ワカンダという国はある種ユートピアのような描かれ方をしていると思っていて。あれは「こうだったらよかった故郷」「わたしたちがいるべきだった故郷の物語」なんですよ。(そう考えたときに、エリック・キルモンガーというキャラクターの掘り下げ方の足りなさとかも感じるけど)

ティチャラの純粋に、ワカンダという恵まれた国で育ってきた屈託のなさと、父親をブラックパンサーに殺された、ルーツをワカンダに持つ、屈託の塊のようなエリック・キルモンガーが対峙したときものすごい切なくなってしまって。(エリックの気持ち考えるととね...いや、ほんとエリック・キルモンガー最高じゃなかったです...?わたし屈託しかない悪役大好きだからほんとエリック大好きなんだけど...)

 ティチャラというキャラクターが「シビルウォー」で登場したときから、このキャラクターを「ただの黒人ヒーローにはしない」「きちんと描こう」という意思を強く感じていて、それは彼の使う英語のアクセントなんだけど、彼の使う英語ってちゃんとアフリカ訛りだったんですよね。それで「教育をきちんと受けた人なのに訛りのある英語なのはおかしい」という意見を当時目にしたりもしたんだけど(根に持ってる)、むしろそれは違うんだよね。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの「アメリカーナ」で、主人公のイフメル(アフリカでも英語を話してた)が、アメリカに渡ってずっと話してきたアフリカ訛りのある英語を「英語じゃない」みたいに言われる場面があって、ナチュラルヘアと同じようにアフリカから来たものは髪の毛も言葉もアメリカ的に矯正させられちゃう。けど、ティチャラはそうじゃなかった。アフリカにある国に王らしく、アフリカの英語を話すキャラクターだった。だからティチャラっていうのはものすごく配慮されて作られていて、その言葉ひとつとってもそこから血肉が通うようになっていると思ったわけです。

そこから今回の「ブラックパンサー」だけど、もちろんティチャラをはじめとして、きちんと「アフリカ英語」が使われているのはもちろんのこと、アフリカンカルチャーを取り入れて良いと思ったのね。もちろんまだ考えるべきこともあるとは思うけど、わたしは文化の盗用やアフリカのステレオタイプというところではあまりひっかからなくて(そういう批判があることも理解した上で、その話も聞きたいと思ってるからみんなブログとか書いてほしい)むしろ、ワカンダをアフリカにあるひとつの国としてみたときに、キルモンガーが王位についてから、ワカンダ国民が2つに分かれてしまって殺しあうわけですよね。アフリカにもそういう歴史はあって(でもそれは西洋諸国のせいだったりもして)そう考えるとCIAのロスの使い方が安易すぎると思うし、だってロスが撃ち墜としてる飛行機、ワカンダ国民がのってたよね?ワカビの部族とティチャラが戦うところだって、死人でてるよね?そう考えると終盤の展開はものすごい安易だし、あそここそ批判されてしかるべきだとわたしは思う。あの映画のアフリカ描写をアフリカ軽視だというなら、あそこの描き方こそがアフリカの歴史を軽視しているんじゃないかと思う。

と思ったのもヤア・ジャシの「奇跡の大地」を読んだからなんだけど、というわけで、ブラックパンサーを見てもっと考えたいみなさま、ぜひ「奇跡の大地」を読んでほしいと思います。

とはいえ「ブラックパンサー」がもの新しい物語だったかというと、わりとアメリカ映画(つかマーベル全部そうじゃない?)では定石の「父と息子の物語」だったし、物語の路線としてはむちゃくちゃ王道だったよね。女性キャラクターが素敵だったのは間違いないけど、やはりあれは男の物語であるとは強く思いました。

 

あと全然関係ないけど、わたしはエリック・キルモンガー死んだと思ってなくて、だってあのシーンだけ引きで取られてて明確に写ってなかったじゃん??だからキルモンガー死んでないと思うの。だからなんなら、エンドロール後のおまけ映像とか、バッキーがうつるまで、キルモンガーが出るんだと思って、死ぬほど泣いてたんだけど、バッキー出てきて涙引っ込んだし、バッキーもわたし大好きなんだけど、「ここばかりはお前じゃねぇよ!!!!!」てなっちゃったんですよね....(インフィニティウォーのトレイラーでキルモンガーを探した女より)

 

ブラックパンサー」のあとに読むべきブックリスト

1. ヤア・ジャシ「奇跡の大地」

2. トニ・モリスン「ソロモンの歌」

3. チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「アメリカーナ」

4. タナハシ・コーツ「世界と僕の間に」

 

 

 

【Recap】ハンズメイズ・テイル/侍女の物語 S1E1

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わたしはかねてから米hulu製作ドラマ版「侍女の物語」を見るのをすごく楽しみにしていた。

日本での配信遅すぎやしない?!ふざけてんの?!なんてことあるごとに文句を言っていたけれど、それはそれだけすごく楽しみにしていたからなのである。

そしてようやく日本での配信がhuluで始まったのだけど、そして毎回配信を欠かさずチェックしているんだけど、なんか寂しい。それはなぜか!こんなに素晴らしいドラマなのに、周りに感想を言い合えるような友人がいないのである!もちろん会ったらドラマのことを話せる友人はいるけど、わたしがやりたいのは中高生のときみたいに登校して友人と顔を合わせた瞬間に「ねえ!!昨日のあのドラマ見たー?」とリアルタイムでキャッキャ感想を言う、みたいなやつ。(注: 当時わたしは家が厳しく、ドラマなどまったく見せてもらえなかったのでこれをやってる子たちを憧れの眼差しで見ていたのであるが)

というわけで、わたしはこれから、このブログで"RECAP"なるものをやってみようと思う。つまり、1話見て、ここに感想を言いに来る、みたいなこと。(欧米のメディアでは結構Recapていうのはやられていて、たとえばロクサーヌ・ゲイはアウトランダーのRecapをしている)

 

さて、では今回は「ハンドメイズ・テイル / 侍女の物語」シーズン1 第1話からやってみようかと思う。

(もちろんネタバレあります!原作のネタバレもあります!ご注意を!)

 

物語はここから始まる、パトカーのサイレン、そして何かから逃げている家族。車は路肩に乗りあげ、子供とその母親だけが徒歩で逃げる。後ろからは数発の銃声が聞こえる。あとに残された父親はどうなったのだろう。 徒歩で森を逃げる親子も、追っ手に捕まってしまう。生き別れになる母親と子供。

 

彼女は元の名を使うことを禁じられ「オブフレッド」という名前を与えられている。これは「of fred=フレッドのもの」という意味で、彼女は明確に誰かの所有物となっていることが示唆される。小説版では描かれない、指揮官の妻 セレーナとオブフレッドとのやりとりが、とてつもない緊張感である。こうなる前の世界では、おそらく対等であった関係が、いまや 服の色/立場 によって明確に分けられている。そしてセレーナが言う「夫は死がわかつまでわたしのもの」「わたしはやられたらやり返す」この言葉でわたしはちょっとおしっこをちびった。ここで面白いなと思うのは、晴れの日のような日差しが窓から入っているのに、窓には雨が降っているかのように水が流れていること。不穏である。

 

そして侍女たちの日々が映し出される。女中はパンを手作りし、そして「戦い」の目的は伝統的な価値観を取り戻すことだったと言われる。もうゾッとする世界である。(つまり、子供がいないならテクノロジーで人工授精とかあるじゃん、て思うかもしれないけど、あくまでも人間同士の性行為によって自然に産まれる子供が産まれなければならないという価値観のある世界であるってことが示唆されてるんだと思う)

 

侍女たちは2人がペアを組んで行動する。表向きは「お友達を作るため」だけれど実際のところは「相互監視」である。でた!ディストピアあるある!!相互監視/密告、そら恐ろしい世界である。(わたしなんかいつも無駄口ばかりだから絶対すぐ密告されて粛清されちゃう...) そしてこの世界はキリスト教原理主義の世界なので、侍女というシステムも聖書から引用されたシステムなんだよね....

 

小説版では全編がオブフレッドのモノローグであるけれども、ドラマ版で語られるオブフレッドのモノローグとオブフレッドを演じるエリザベス・モスの表情がすごく良い。彼女の表情の端々に、反抗的な態度や意地の悪さみたいなものが見え隠れする。小説版では娘のために耐えるけれども、ドラマ版では心の中で悪態つきまくりなのである。(pious little shit(経験なクソ女)だよ?!)すごいよね、なんていうかもうしょっぱなから、オブフレッドは体制に従順ではなく、わたしたちのように悪態もつけば、男と小粋な会話をしたいと欲する普通の女性であることがわかっちゃうんだもんね。ここでわたしはいっきにドラマ版のオブフレッドに好感を抱いたのだけど。

 

スーパーで顔を合わせた侍女たちの会話も恐ろしい。「あなたの家の指揮官は大物だってニュースで言ってた」と言ってからの気まずい表情、「何かで読んだわけじゃないから....」という言い訳そしてその表情。これだけで侍女たちは読むことを禁止され、読むという行為がどれだけの罰に値するか、わたしたちはうかがい知ることができる。

 

原作では描写があまりない「侍女養成所」での描写も恐ろしくよくできている。(養成所冒頭のシーンなんかそのまんまマッドマックスの冒頭じゃん...てなったよね...)リディア伯母なんかもう恐ろしすぎて、エミー賞の再放送みたときに壇上にいるアン・ダウド見て怯えたくらいですよ....(わりと厳しめの女子校育ちなのでこういう風紀委員の先生いたな...ってちょっと思ったりもしたけど) 養成所で使われるのは家畜を躾けるための棒状のスタンガンで、もはや侍女たちは人間ではなく管理されるべき動物なのであるということがうかがい知ることができる。そしてジャニーンね....もうさ....もうほんとここらへん辛いと同時に、自分だったら、自分だったらどうするんだろうって考えてしまう。(ちなみにわたしは口だけ達者な小心者なので絶対反抗とかできないしわりと従順に従ってしまいそう...こわい...) でも、レイプの体験を告白させられるジャニーンとそれを指差し「あなたが悪い!」と輪唱する侍女たちとかもさ...ほんと....普通の感覚だったらできないことをああやってやらされる中で服従心みたいなのを養わせるみたいなその手法がリアルで怖すぎではなかったでしょうか....

(じつは伯母たちの1人として原作者のマーガレット・アトウッドが出演しております。ちょっと笑っちゃった。)

 

あと間に挟まれる「こうなる前の世界」でのオブフレッドとモイラの描写も秀逸で(あっ、もしかしてこのドラマではモイラだけが名を奪われてないというか、オブ〜で呼ばれる名前をわたしたちが知らないキャラクターなのでは)マリファナ吸いながら、大学構内でのレイプについての講義について話をしてるんだけど、これって原作ではうかがい知れないモイラとオブフレッドが「こうなる前の世界ではどの立場にいた人間か」を明確にするためにものすごく有効で、大卒で、レズビアンの友人がいて、っていういわゆるリベラルで現代的な女性、つまりわたしたち(ていうかまあわたしですけど)とものすごく同じ境遇であるみたいなところで、グッと侍女たちと自分の距離が詰められるような気がしたんだよね。余計に他人事じゃない、っていう恐怖心が煽られるというか。

 

あとこれも原作になかった「粛清の儀」の描写、これほんとすごいっていうか、侍女たちも鬱憤がたまるじゃん、それを罪を犯した人を罰するという大義名分のもと、侍女たちの鬱憤を晴らすための場が提供されているという、さ、不満を募らせた侍女たちが一致団結して暴動など企てないようにする意図もあるんだろうと思うんだけど、ギレアドのやり口の巧妙さみたいなのが垣間見えるよね....

 

第1話の終わり、オブフレッドは自らの名をわたしたちに伝える。この物語は「名を奪われたオブフレッドの物語」ではなく、「ジューンの物語」となる。こういう端々で、原作では描かれない描写やメッセージを補填しつつも、さらにそこから進んだ物語を構築してみせる、これこそ「ドラマ化」のあるべき姿というかんじがしますね...つらいけど...

 

 

 

映画はあなたの写し鏡 「シェイプ・オブ・ウォーター」

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これを書いてる今、わたしはものすごく困惑している。

なぜなら超話題で、みんなが絶賛していて、アカデミー賞もとっちゃって、もちろんわたしだって超期待していた映画「シェイプ・オブ・ウォーター」について、わたしは全くと言っていいほど心が動かなかったどころか、映画を見ている最中ずっと心が冷えていって、映画館を出てから友人に「わたしの心がシェイプ・オブ・コールドウォーターです」なんつってラインをしたほどなのだ。(正座してこれ書いてるけど膝が痛いので座布団をいただけますか?)

 

で、まあこの映画が大好きな人たちをクサすつもりも、コールドウォーター(座布団??)を浴びせるつもりもないんだけれど、批判するつもりもなくて、わたしは自分の「ダメだった」という意見を、ひとつの意見として書いておきたいと思うのである。わたしは自分の頭でこう考えた、という意味で。だからNo Offence!これを読んで嫌な気持ちになったらごめんなさい。

 

書き終わってここに立ち返ったけど、言いたいことをちゃんと言えてる気がしない。文章が下手。もうだめ。

 

この映画は、発話障害があり、パートタイムの夜勤掃除婦という、社会では透明になってしまいがちなキャラクターを主人公としていて、その友達には孤独なゲイの絵描き、そして遅刻ギリギリで職場に到着するエライザをいつも助けてくれ、半魚人救出作戦に力を貸してくれる同じ掃除婦として働く黒人女性が登場する。これらのキャラクターはビッグバジェット映画ではあまり用いられることのない弱者であり、実社会でも透明人間のようだとも言えるだろう。そういう黙殺されてしまいがちな人々が登場人物のほとんどである映画であるという意味でこの作品を評価されているという記事を読んだけれども、果たしてそうだろうか。

しかし、映画中に登場はしたが、彼らは物語の進行にとって、都合の良い使われ方だけをしてはいなかっただろうか。(少なくともわたしにはそう思えた)ゲイの友人、そして黒人女性は「マジカル・ゲイ」「マジカル・二グロ」としてしか機能していないのではないかとわたしは思う。

映画界には「弱者が描かれない」という批判も存在し、この映画はその問題点は弱者を主人公にすることによってクリアしていたと思う。しかし「描かれた弱者が物語にとって」ここでいえば、異性愛者の白人女性の物語を補助する役目だけではなかったか。正直、わたしにはゼルダとエライザの友情という関係性が、10年ペアを組んで掃除の仕事をしていること、そしてゼルダが毎日遅刻ギリギリでくるエライザのタイムカード押しの順番をとっていてあげたりすることを通してしかうかがい知ることができず、物語を推し進めるだけの装置としてしか機能していない。パートタイムで働く黒人女性や、ゲイのキャラクターを多く登場させ、そのことのみで「映画における多様性」という問題点に一定の評価をしてしまうことに、わたしは疑問を感じる。(これは言い過ぎかもしれないが、多様性を本当に意識して作られたのなら、エライザが黒人女性で、ゼルダが白人女性でないのはどうしてか?とも思うし。)

 先ほど、わたしはエライザを異性愛者と言ったけれども、わたしの中には彼女を異性愛者ということに躊躇がないわけではない。つまりこの映画の中では彼女の相手は半魚人なので、エライザが異性愛者であるかを断言することは難しい。しかし、劇中では半魚人にはペニスがあると話されていたし、そのセックスも異性愛的な"Sexual Intercourse"であることが示唆されていた。こう考えてみると、せっかく「異形なもの」との「真実の愛」が描かれたにもかかわらず、その愛が異性愛的性愛に結びついてしまったのも、すこしもったいない気がする。(とはいえ異形なものとの恋なのだから、異性愛的性愛ではないものが描かれるべきと主張したいわけではない。べつに異性愛的な物語だってあった方がいいに決まってる。けれども現在において異性愛的性愛の話はたくさんあるけれども、非異性愛的性愛以外のラブストーリーの数が圧倒的に少ないのもまた事実である。)

 

それと、かねてからわたしは「シェイプ・オブ・ウォーター」は「真実の愛」の話であると聞いていたのだけれども、これが愛の話なのであれば、愛というのはぞっとするほど身勝手な話だとわたしは思う。(あーでも愛って身勝手なもんだよね。)映画を見ている間中ずっと、わたしはカーソン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」のことを思い出していた。登場人物に発話障害がある点や、主に弱者が描かれるところなど、共通点もあるのではないかと思ったのだけれど、それよりもなによりも、「心は孤独な狩人」では、発話障害のあるシンガーという主人公に様々な社会的弱者たちが自分の心情をぶちまけ、そしてただ穏やかな顔をしてその話を聞くシンガーに対して皆が「彼は神のようだ」と彼の事を神格化していくのだけれど、シンガーはシンガーで自分の事だけを話し、相手は聞くだけという一方的にも思える関係の友人がいるのだ。わたしはこの本を読んだときに、人は誰しも物言わぬ(物理的にという意味ではなく)他者に自分を投影したがっていて、否定せずに自分を投影させてくれる人を愛し、神格化するけれども、結局それは自己愛でしかなくて、人は身勝手だし愛というのはなんて身勝手なんだろう。どこまでも一方通行でしかない。。。」みたいなことを思って、心から血が出ていまもそこが痛いんですけど、「シェイプ・オブ・ウォーター」における半魚人も、「心は孤独な狩人」におけるシンガーと同じ役割を担っていると思う。

エライザは「彼の眼を見るとき、彼はわたしを理解していると思う」と言っているけれども、実際には半魚人がエライザのなにを理解しているのか、はたまた彼女を愛しているのかというのはわたしたちには明かされない。たしかに「わたしと/あなたは/一緒」というけれども、その愛情のはぐくまれた理由が、あまりにも描かれないのである。これはすこし不気味ではあるまいか。エライザはもしかして、物言わぬ彼に自分自身の幻想を投影していたのかもしれず、物言わぬ彼が一体エライザに何を思っていたのか、それは計り知れないのである。

半魚人がもしかしたら向かい合う他者の願望を映し出すのではないかと思ったのはもうひとつ、薄毛に悩むジャイルズの髪を生やしてやるような描写があったことで、あそこはちょっとコミカルで笑ってしまったんだけれども、自らの願望を半魚人に投影したジャイルズは「彼は神じゃないか」とまた彼を神格化する。

この物語が真実の愛の物語なのであれば、やはり愛とは自らを他者に投影することにほかならず、いったいこの物語における半魚人とはなんだったのであろうかと考えてしまうのである。また、エライザと半魚人の関係性の構築の描き方もじつは、2人が心を通わせているような場面がうつされるのみで、わたしたちには二人の間に愛という共通の感情があるという、わたしたちの願望を投影させているのではないか。つまり半魚人に自らの欲望を投影するエライザに対し、わたしたちは、わたしたちの思う「愛」という欲望を投影することによって、自分の見たいものをこの映画に見ているのではないだろうか。(だからわたしも自分の見たいようにこの映画を見てこんなこと書いてるってこと!)

登場人物たちの動機や感情があまり明確にあらわされない映画であったように思うのだけれども、その中でやたらと描写が細かかった人物がひとりいた。その人こそが今作の悪役であるストリックランドである。彼は現代社会の権力の権化ともいえる人物だったけれども、その実、彼も「社会」という場所では弱者であった(とはいえ彼はそうは思っておらず、自らの権力を信じて自らの使命に邁進するのだけれど)という、この人物はものすごく現代社会における権力に対して批判的な目線で造形されたキャラクターである。だって彼は現代社会のなんというか、権力的マチズモに溢れているんだけれども、彼はそれを正しい、「まともである」として生きてきて、たったひとつのミスで上司からは「まともっていうのはミスをしない人の事いうんだぜ」と言われちゃうんだよ。悲しきかな中間管理職。ここらへんはすごく、意図的にマチズモ的権力批判になっていた。最近マチズモ的な価値観を壊していこうみたいな話が多いように思えるんだけど、この映画もマチズモの悲哀映画としては、よくできてたんじゃないかと思う。彼の言う「まとも」から外れるにつれて彼の失墜を表すように腐っていく指、そして「成功の証ですよ。あなたにこそこれがふさわしい!成功者です!」とおだてられて好きでもないと言っていたグリーンのキャデラックなんか買っちゃって(ティール!です!)しかもその車も、自分の失墜のきっかけとなる半魚人逃走計画の最中に盛大にぶつけられてたし。車=男根/男性性の象徴、なんて言ったりもするけど、ストリックランドにだけこういうメタフォリカルな描写が多かった。なんか弱者たちのバックグラウンドがあまりにも描かれないのに、ストリックランドだけ車や、家族や、ものすごく懇切丁寧に描写されてて、すごいアンバランスな不思議さがあった。ストリックランドに共感したという方のブログを読んだけれども、たしかにストリックランドだけがものすごく丁寧にキャラクターとして描写されていたので、そう感じる人がいてもおかしくないのではないか。

 

いいたいことがぐちゃぐちゃになってきちゃったけれども、なんというかこの映画は見る人によってものすごく投影するものが変わる映画なのかな、と思っていて、だから「水の形」というタイトルもすごいしっくりきていて。「水の形ってどんな形?」と言ったらおそらくみんな違う答えを返すように、この映画も見る人が見るものによって形を変える、まさに「シェイプ・オブ・ウォーター」というタイトルがふさわしい映画なのではないだろうか。そう思えばよい映画だったのかもしれない。

2018.1.1

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2017年はわたしにとって大変に転機の年であった。転職をして、世の中には最悪じゃない職場があることを知った。こんなんなら、もっと早く転職すればよかったとも思うけれど、前職場が時々恋しくなったりすることもあって、すべてひっくるめて良い思い出になったのだと思う。いまでは前職場での7年間にも感謝しかない。いい経験ができたのだと。

2018年はどんな年になるだろう。今の職場で早く一人前になれるように頑張りたい。たくさん本を読みたい。

そういえば大好きだった映画も12月はほとんど見ていなくて、お酒もあまり飲みたくなくて、人生の中で好きだったことの2つが少し離れていくのかなと思ったりもする。少し寂しいけど、もしかしたらこれが成長するということなのかもしれない。これからわたしがどこに行くのか、何をするのか、ほんとうにわからないと思う。でもその不確かさみたいなのが、いまはすごくワクワクするので、2018年は決めつけずにやっていけたらいいな。いままで好きだったことをふとやらなくなってもいいし、いままでだったら絶対にやらないことを、突然やったっていいよね。わたしは誰にも決めつけられない、自分からも決めつけられないぞと思う。

去年はほんとうに、家族、お友達のみんなの応援が力になりました。たくさん愚痴をきいてもらって、たくさん励ましてもらって、そして嬉しい知らせに、すごく喜んでくれたみなさん、ほんとうにありがとうございました。わたしは本当にみんなのことが大好きです。石頭偏屈頑固と三拍子揃っているこんなわたくしですが、これからもどうぞよろしくお願いします。2018年がみなさまにとって、素晴らしい一年になりますように。

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