#わたしだけのブッククラブ

written by Nao (twitter: smkebks)

Netflix「GIRI/HAJI」と父親の不在

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いやあ良いドラマでしたね。「GIRI/HAJI」わたしはこのドラマをみるまで、わたしが苦手なのは日本の俳優の演技なのだと思い込んでいたのだけど、日本語英語のスイッチングなどによって多少の違和感はあるにせよ「GIRI/HAJI」において日本人俳優たちの魅力的なこと!わたしが苦手だったのは日本の製作者の作る物語とそこに至る過程で俳優に求められる演技なのであって、演技そのものや俳優そのものではないのだなあと思ったのでした。(「GIRI/HAJI」はBBC製作です)

このノワールドラマにおいて、描かれているのは「家父長主義原理国家である日本における父親の不在」だと思う。

冒頭から森家においては父親が不在であることが繰り返し描かれ、そのことによって家庭が機能不全に陥っている様が印象付けられる。これはまあ仕事ばかりで家にいない父親という、一般的に多いと思われる家庭の状態であり、家父長主義国家でありながらも父親は家にはおらず、そこに権力もあまりない。

それではここにおいて圧倒的父性として立ち上がってくるのはなにか。それは遠藤家/福原家を代表するヤクザの「親分」である。彼らは劇中舎弟たちによって「オヤジ」と呼ばれる存在であり、劇中で描かれる日本においては圧倒的な権力を持つ唯一の「存在する」家父長なのである。

 

・森家の場合

森家の父は、イギリスへ弟を探しに行き、その不在の父を探しにきたタキだが(娘は父を追いかけてきたのではなく、父を探しにきたというのが劇中タキのセリフに明確に示されている)タキは結局父親はいなかった、だから気持ちがおかしいのだとしてロンドンでビルから飛び降りようとする。(ここから始まるダンス、わたしこういうのすごい苦手なのになぜかいたく感動した)

劇中唯一登場する普通の家庭の代表である森家において、もはや父親はいないのだ。ロンドンまで探しにきても、「父親」はいないのだ。彼女の人生、そして森家には永遠に欠落した存在が父親なのである。

そして健三がロンドンへ行き(父が不在)、祖父(穂高)が亡くなった(また父が不在)、森家から父親がいなくなったとき、祖母、嫁はついに外に出るのである。父親たちが不在となり、外に出て自分で何かを成し遂げた(のかな?)とき、初めて嫁は笑顔を見せるのである。(まあチーム女子の活躍はややもすれば少し物足りない感もあるけど)

 

・遠藤家/福原家の場合

「オヤジ」と呼ばれて二大ヤクザを仕切る親分2名が「悪しき父親」、旧世代から続く悪しき家父長制は、ゆうとが仕掛けた抗争により結果的に殺される(父の不在)となるわけだけれども、そういう意味であの親分会議の場で「女子」プロレスラーである長与千種が圧倒的父性に退場を宣告するのはとても意味のあるキャスティングだったと思う。ここにおいても、(ヤクザという組織自体は解体されはしなかったけれども)象徴的父性が不在となる幕引きである。

 

・ゆうとの場合

窪塚洋介演じるゆうとは唯一、「不在」が「存在」となるキャラクターである。彼があらゆる父性を(直接的/間接的に)解体していき、いちばん若い父親であるゆうとが父親となる。しかし彼が父親になるのは父親が不在である日本ではなく、フランスにおいてである。

つまり「家父長制原理主義国家」である日本では父親は永久に不在のままであり、父親になることはできず、日本を出ることによって父親になれるのはこれも意味ありげであって、けれどもなんか日本はやっぱあかんのかなあ...まあわかるなあ...みたいな気持ちになったりしたのであった。

 

あとGIRI/HAJIはわたしは英語/日本語がパシパシと切り替えてFrequentに使われる様子がとても小気味好く好きだった。なんというか作品中に複数の言語が登場し、登場人物がそれを使い分けるみたいなのもっとあってもいいと思うんだよね。単一言語だけなんて古いでしょ、という気持ちになった。日本語を解さない者がいる席では日本人の家族同士でも英語で話し、聞かれたくないとこは日本語使う、みたいなそういう切り替えもすごく上手だったよね〜

 

ヤクザノワールとして始まったと思いきや、製作陣がE5あたりから”Bad Intension”の話を持ち出してきて、そこらへんから人間がどのような悪意をもって行動を起こしてしまったにせよ、人間の存在の根底にある善を信じようとするような眼差しや、異なった価値観を持つ者たちが一緒に行動するようになるにつれて連帯していく様子など、あぁ人間ドラマを描きたかったのだなあとすごく感動してしまったんだよね。なので終盤のあのダンスもありです!テーマをよく示してた!

 

 

 

忍び寄るギリアド アドウッド The Testaments雑感

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注意: もちろんですがネタバレしてます。

邦訳出てないので楽しみにしてる方は以下読まないようお願いします。

 

マーガレット・アトウッド侍女の物語」の続編”The Testaments”読んだ...前作はギレアド初期に侍女となったひとりの女性の手記という形の物語だったけれども、今回は時代設定がおそらくギレアド中期〜後期、なんと手記を書くのはリディア伯母(しかも第三の壁ぶち破ってこっちに話しかけてくるリディア伯母...完全にドラマ版でリディアを演じたアン・ダウドで脳内再生されるのでDear Reader,とか言ってくるリディア伯母怖すぎた...)そして、証言者として侍女の子として生まれコマンダーの家で育ったアグネスと、同じく侍女の子として生まれたけれどもその侍女が子供を海外に逃亡させ、自分の出生について知らずにカナダで育ったデイジーのお話になっている。

前回は一人称で語られる物語で、わたしは前作を読みながら自分が「侍女になるかもしれない未来」そしてそれが決しておとぎ話ではないことを考えてこれはもはやフィクションではない...と戦慄したのだけども、今回はねえ、まさかの「自分が伯母になってしまうかもしれない未来」がわりと手に取るように伝わってきて絶望しました。わたしはあのやり方をしてくるギレアドに抗える気がしない...

なぜならあの鋼鉄の女、伝説の伯母リディア(まじでリディアはギレアド内で伝説になってて、もはや各ご家庭でマーサが子供達に「そんなことしてるとリディア伯母がくるよ!」とか年頃の娘たちには「リディア伯母ならあなたにどうしろというでしょうか?」みたいなもはやコクソンの國村さん(あまりの怖さに韓国国内の各ご家庭で「悪さをすると國村さんがくる!」と各ご家庭で子供達を諌めるためのミームになったらしい)とか、なつかしの”What Would Jusus Do”ブレスレットみたいなことになってるんですよね。THE 伝説。しかもコマンダーたちの子供が通う学校にはリディアの肖像写真が金縁の額に入れられて飾ってあり、子供達から「あの絵のリディアの目が動く」とか言われてもはや音楽室のベートーヴェンみたいなことになってるんですよ。)そう、そのリディアは実は判事であり、法律家時代は女性の権利のために活動してきた女だったことが今作で明かされるんですよ。それが、そんなリディアですら自分の身を守るために伯母になることを、生きるために選択してしまう。賢い女、適応能力のある女ほど、もしかしたら生存のために伯母になってしまうのかもしれない。しかもその賢さや、(判事になるほど勉強を頑張れた)真面目さによってその後伯母としてもガンガン実績を作ってしまうのかもしれない...リディアの物語を読むと、自分がそうなってしまう未来が想像できてしまって、自分が怖い。

例えばリディアは初代伯母4名と最初の顔合わせ&会議の時に「私にはイデオロギーはない。だから強いのだ」って言ってて、もはや彼女はギレアドやヤコブの息子たちの理念に共感したわけではなくていかに伯母4人の中でイニシアチブを取るかっていう戦略を立てるんですよね...わかる....この中で1番仕事できるようになりたいみたいなやつだ...また自分が怖い...

それで続編で描かれるギリアドでは、コマンダーの娘たちもギリアドの性交渉や男性との不用意な接触を防ぐための教育によってペニス恐怖症になった女の子たちは若い年齢で結婚させられそうになると伯母になりたいと宣言して伯母になるためにトレイニーとなるんですよね...なんかもうそれもつらい。ちょっと面白かったのは伯母にスカウトされたら現世での名前を捨ててリストから名前を選ぶんだけど、その名前が「ギリアドになる前の世界で女性たちが使っていた製品の名前」らしい。アグネスが選んだヴィクトリアはもしかしてヴィクトリアズ・シークレット...?女性たちに安心感を与えるために馴染みのある名前に改名するらしい...ひぃ〜っ!リストには他にもIVORY(石鹸)やメイベリン(メイベリン!!!!!!)なんて名前もある。あとウェンディ伯母とかもでてくるわけ....!

世界はギリアドにまた一歩近づいているとアトウッドは言う。そんな世界の中で、わたしは女性として、被害者にもそして加害者にもなりうるのだとすれば、もうどうしたらいいのか...普段被害者フェイスしてしまいがちだけどいつでもわたしは加害者に加担してしまうことも、加害者になってしまうことだってあるのだ。

と色々考えたりしたんだけど、続編としてはこの物語はどうなんだろう?いまいちリディアがギレアドに反旗を翻した動機も踏み込み切れていないし、女の子たちの描写もすこしステレオタイプっぽくはないかなあと思ったりしたのでした。ベッカの自己犠牲とかもさあ、まあそうかもしれないけど割とありきたりじゃない?早く誰かと話したいから早く邦訳でてほしいなあ。

Unofficialですけどわたしとしては侍女の物語の続編は、マッドマックス 怒りのデスロード!あのときに侍女たちを助けるフュリオサがその理由を「Redemption」だと言ったけれど、リディア伯母もそんなことを考えていたりしたのだろうか。

とにかくいま世界一ギレアドに近づいていそうな日本、このままじゃいけないよな...

 

 

 

「キャプテン・マーベル」は"フェミニズム"ヒーローか

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マーベル初の女性ヒーロー映画「キャプテン・マーベル」なんだけど、思っていたよりずっとフェミニズム的に正しい方向で作ろうと頑張っていたので、そこらへんについて書きたいと思います。

フェミニズム的に、とかそういう湾曲した言い方をしているのはなぜかというと、最近個人的に商業主義的な作品が本質的にフェミニズムたりえるかというところに少し懐疑的な気持ちがあったりして、商業主義 of 商業主義であるところのマーベル映画を「フェミニズムである」と断言することにすこし危うさも感じるので...とはいえ「キャプテン・マーベル」はたくさんの女の子を勇気付ける作品であると思ったので、それについて書きますね。

1) 女性主体のアクション映画としての正しさ
やっぱりここで対比として出してしまうのはDC映画の「ワンダー・ウーマン」なんだけれども、あれは監督もどこかで言及していたとおりアクション映画ではあるんだけど、下敷きとしてラブストーリーである「ローマの休日」を引いているんですよね。だから女性ヒーローのアクション映画ではあるけれども、男性ヒーロー映画であのストーリーにはあまり成り得ないような気がするんですね。「ローマの休日」を下敷きにしたことによってワンダー・ウーマンの魅力を引き出すことに成功していたとしてもね。あとワンダー・マーベルでワンダー・ウーマンが故郷を出てからアクションを担う女性はワンダー・ウーマンひとりだけであるしね。(そういえばむしろ男性ヒーロー映画で「ローマの休日」を下敷きにした映画を見たくない?)

その点「キャプテン・マーベル」は女性ヒーローもののアクション映画としてとてもちゃんとしていたと思う。アクションシーンを担うのもキャプテン・マーベルだけではなく、キャプテン・マーベルがキャロルであった時代の親友マリアや、クリーの戦士ミン・エルヴァがきちんと主要なアクションシーンを担っていたんじゃないでしょうか。終盤の宇宙船チェイスシーンなんかも、主要人物のうち3/4(マリア/ミン・エルヴァ/キャプテン・マーベル)を女性が担っていたし。あの終盤のチェイスシーンなんて、まるでスターウォーズを彷彿とさせるようなかっこいいチェイスで、やってくれたな!!という気持ちでガッツポーズしましたね。

言っておくと、女のヒーロー映画だからちゃんとアクションをしろって言ってるわけじゃなくて、女性ヒーローもの/男性ヒーローもののアクション映画が同等数作られているならラブコメ風アクションとかあってもいいんだけど、圧倒的に女性主役の正統派アクション映画が少ないでしょう。わたしが言いたいのは、だからまだ「正統派な」女性アクション映画が必要とされるフェーズは抜け出してないということです。

2)「女だから」という繰り返されるメッセージ
幼少期から男勝りなことをやるたびに失敗し「女だから」と言われてきたキャロルが、本編中に回想として繰り返し挿入されます。これはやや直接的すぎるきらいもあるのではと思いもしたんだけれども、よく考えたらぼやかされるよりはずっといいんじゃないかとも思いますね。そして過去なんどもそう言われてきた、そして、クリーの戦士になってからは「感情を抑えて戦士らしく振舞うように」(感情を抑えられないことが世間ではいわゆる"女性ならではの欠点"と認識されてるってご存知でしょうか)と言われ続けるキャロルがキャプテン・マーベルとして「家父長制的、血縁的支配」から逃れるのがストーリーのひとつのキーにもなっているのではないでしょうか。つまりキャロルは地球では「男の領域に手を出そうとする悪い女性である、女のくせに」と言われ、無限の力を手の入れたクリーにおいては「感情を抑えられないから(≒女だから)」と言われ続け、女であることの欠点を内在化してしまっているとも言えるんですね。(*感情的であるっていうくだりは、女だからとは劇中では明言されてはいません)
その刷り込みの象徴があの首のチップであり、そして家父長制的、血縁的支配というのはクリーでの師弟関係です。

キャロルの肉体にはクリーの血液が流れていることは劇中にて明言されていますが、クリーというのは基本的に帝国主義的/ナショナリズムに根ざした民族でどんどん他民族を排斥して自分たちの領土を拡大していく民族なわけです。最終的にその排斥に反する行いをする、というキャプテン・マーベルはつまりは政治的な"フェミニズム"ヒーローとしての反家父長制という印を担うことになるわけです。

そして首のチップは、これはシュプリーム・インテリジェンスからは「わたしたちが力を与えた印」とキャプテン・マーベルは言われるわけですが、実はキャプテン・マーベルの本来の能力を制御するための"枷"としての働きをしていたということです。クリーによって埋め込まれた枷と、地球にいたキャロルに埋め込まれた「女だから」という呪いのような枷のダブルミーニングではないでしょうか。つまりその枷は、いわゆるガラスの天井であり、そしてわたしたち女性に対して投げられる「女なのに/女だから」という言葉でもあるということです。その呪いが、女性から本来の力を、能力を奪ってしまう、女性をコントロールしやすくするための枷だというメッセージなのではないでしょうか。その枷を自らの力で外すキャプテン・マーベルはやはり"フェミニズム"ヒーローなのです。(ごめんけど冒頭で述べたとおりなのであえてここにはクォーテーションマークつけますね)

3) 選曲の巧みさ
いや〜〜この映画なにがいいって選曲が良かったと思う。
キャプテン・マーベルが自分を引きとめようとするクリー戦士たちをボッコボコにするシーンで流れるのはノーダウトの"Just a Girl"ね。これ権利の関係で難しいのだろうけどぜひ歌詞を字幕に出して欲しかった...

「わたしはリトル・ガールだから、世界はあなたの手を握ってろって言うし、外に出たら逃げたり隠れたりばっかり。わたしってリトル・ガールだからちょっとしたこともできないんだよね。リトル・ガールだから夜遅く運転もさせてもらえない。だからリトル・ガールじゃないほうがよかったのかも。わたしは押さえつけられて生きるただの女の子。でも負けない!もう我慢できない!」っていうような歌詞なんですよ。ハァ〜〜最高じゃない?!しかもノーダウトですよ!(これはわたしの世代の問題ですね)

そしてそしてエンドロールではコートニー・ラブ率いるHoleのCelebrity Skinですよ。もうさあ〜これも歌詞がすっごいいいんだけど、やっとここまで来たけどまあ無名のままがいっか!みたいな。けど何よりもスキャンダルでしか表舞台で語られることのないコートニー・ラブの歌声をマーベル映画のエンドロールで聴けると思った?!思わなかったよぉ〜〜もうなんかめっちゃ胸が熱くなっちゃったのよわたしは....

ちなみにコートニー・ラブってニルヴァーナのカートの妻だった人なんだけどニルヴァーナの歌"Come As You Are"はキャプテン・マーベルがシュプリーム・インテリジェンスとの対話で枷を外すシーンで流れてましたね。


4)けれども...
やっぱりこれはホワイト・フェミニズムなのではと思ってしまうところもなくはなかったわけで。キャプテン・マーベルの脇を固める女性陣であるミン・エルヴァはアジア系のジェマ・チャンで、キャロルの親友はアフリカ系イギリス人のラシャナ・リンチなわけで、ある意味人種的に多様ではあるんだけど、またぞろ主役の白人を支える、トークンとしてのマイノリティみたいなことが頭に浮かんだりもするわけで。でももうここらへんって、キャプテン・マーベルをアフリカ系/アジア系/ヒスパニック系の女優が演じるとか、そこらへんまで来ないと解消されないことなんだけど、果たしてそこまで業界つうか世界が追いついているのか...ってことにもなるもんね...と複雑な気持ちに。

あとあれ、軍国主義的なクリーの戦闘服を脱ぎ捨てたキャプテン・マーベルが選ぶのは「アメリカ空軍」という別の国の軍のカラーを持った戦闘服であって、やっぱりそこは軍国主義的なんだよね。まあヒーローってそんなもんなんだけど。やっぱりアメリカのヒーローが持つ危うさや欺瞞とかをあそこで明確に意識してしまった。

あとさあ、キャロルとマリアの関係って限りなく同性愛を匂わせつつ明言はしない(マリアは子供いるけどあの家に父親の影はない)てのがまた、お得意のクィアベイティングでしょうか、とちょっとモヤつきました。

この映画で異性愛者として明確に描かれているのってあの迫害される民族だけだから、まあある意味セクシュアリティについては言及が薄いっていう見方もできるのかもだけどね。


全然関係ないけどどこぞの映画サイトが「キャプテン・マーベルの精神はセーラームーンに通じる」って書いてあって反吐が出ました。女性ヒーローだからってすーぐそうやって言うの時代錯誤だと思いま〜〜す!

エンパワメントってなんだろう?

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いまさ、ほんと毎日のように女性をエンパワメントしようとか、多様性をとか、そういうウェブの記事がどんどん流れてきて、でもそれらのほとんどがわたしにとっては困惑の種でしかないのだ。エンパワメントを銘打った記事のページを開くとき、わたしはとてつもない不安に襲われるし、記事を読んではモヤっとした気持ちを残したままページを閉じるのである。

それはなぜか。

いちいちそれらの記事を取り上げてまとめてたのでは一生かかるし、どこに喧嘩売り散らかすんじゃいってかんじになっちゃうから、ひとつ、「エンパワメント」という名目のもとに作られた企業CMを例にあげて、その彼らの言う「エンパワメント」の危険性みたいなものを書いてみたいと思う。

 

それでは、一旦このCMを見ていただけますか?(ちなみにだけどわたし毛むくじゃらだし、エステサロンから金貰ってCM貼ってるわけじゃないからね)

KIREIMO 100% GIRLS!! 100人篇 60秒 - YouTube

 

これは脱毛エステサロンの企業CMなんだけど、これは「女性のエンパワメント」や「多様性」を意識して作られているように思えるのね。それで、このCMが放映されると、たしか結構「いいね」っていう好意的な声が多かったように思う。たしかに、このCMは消費者を脅さない。「毛が生えていたら男が逃げるぞ」とか「ジョリジョリじゃモテない」という呪いをわたしたちに押し付けてくることはない。この脱毛サロンは「なりたい自分、100%の自分になるための脱毛」を売り込んでいるのだ。(ねえ、気づいたんだけど、わたしすっごい毛深いからさあ、無意識にすごい脱毛サロンのCMに注目してるみたい。上の文言、どこのサロンのCMか名前挙げられるもん。脱毛の予定ないけどさ。)

まあたしかに、消費者をネガティヴな呪いで脅して商品購入をさせようとしない、という意味では過去にたくさん炎上してきた化粧品やなにかのCMからは随分とポジティブなCMに思える。しかも!なんと!エステサロンのCMなのに、「従来の理想とされる体型」ではない、従来のモデル体型からはプラスサイズとされる渡辺直美をメインに据えているのである!これってすごい!

(そもそも太っていることは受け入れられるけど、毛深いのはNGなのか?っていうとこについては、これ脱毛サロンのCMなんでちょっと置いておくね。少なくともこのCMは「毛深いのはNG」という表現は表立ってはしておらず、なりたい自分になるための脱毛という売り文句を使っているから。)

 

....ほんとうにこのCMはすごいんだろうか?

 

1) 多様性とはなにか

たしかに渡辺直美をメインに据えているところで「多様性」を打ち出したい企業側の意識もよく理解できる。しかし、渡辺直美以外の女性たちを見てほしい。

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 どうだろう。渡辺直美以外の「多様性」はここにあるだろうか?多様性を打ち出した映画などの作品において、そこで批判されるのが「多様性の代表的な人物」を「ひとりだけ」登用することで「多様性」を表現することである。この「多様性を体現するたった一人の人間」はしばしば「トークン」と呼ばれる。で、それを踏まえてこのCMを見ると、明らかに渡辺直美トークンとして、つまり多様性を示すための唯一の登場人物としてこのCMに登場しており、つまり渡辺直美ひとりを除けば、その多様性は崩壊することになるのだ。

多様性って、多様ってこと、つまりはやっぱりそのひとりを除外したらあとは従来どおりの女性表象というのでは、多様性とは言えないのではないか。それでもこれが多様性というのなら、わたしの考える多様性とはずいぶんかけ離れたものだ。

 

2) エンパワメントとはなにか

それで、このエステサロンは、 国連国連ニューヨーク本部で開催された「対話と発展のための世界文化多様性デー」の一環であるイベントに「女性のエンパワメントと多様性」を掲げて参加しているんですね。

国連の友Asia‐Pacficと東京ガールズコレクションが提携し実現した『TGCファッションセレモニー at 国連DDR』に「すべての女性をもっとキレイに」を目指すKIREIMOも参加!|株式会社ヴィエリスのプレスリリース

そうなると、なんだろう、これはもはや「オフィシャルの」(指クィッてやるやつでイメージしてね)エンパワメントなのだろうか?という疑問も生じてくる。

 そしてまたぞろ、このエンパワメントを目的としたステージパフォーマンスの写真を見てみたいと思う。

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どうだろう。多様性とエンパワメントを体現したステージで、渡辺直美以外の女性の画一性がひとめでわかるのではないだろうか。つまりここで提示された多様性とは「渡辺直美」ひとりであり、それ以外は「従前どおりのモデルのような痩せていて美しいとされる身体」なのである。あれ、多様性ってなんだったっけ。ここで(しかも国連というステージ上で)提示された、この脱毛サロンによる多様性とは、ご覧の通りなのである。

また同じ場でスピーチを行った同社のCEOはこのように述べている。

すべての女性が自分らしく、 いつも100%の自分でいられること。 それが私たちの考えるキレイです。 」「女性たちが自分らしく、 ポジティブに生きることができれば、 世界もきっと、 より良い方向に進んでいく。 そう信じて、 KIREIMOはこれからも進化を続けます!

ステージ上やCM上で提示される一見ポジティブなメッセージに包まれた限りなく狭い多様性という表象が、「女性の自分らしさ」や「100%の自分」という言葉と合わさって、この「エンパワメントのような何か」が形成されているのだ。この居心地の悪さはいったいなんだろう。これがほんとうにエンパワメントなんだろうか。悲しいことに、わたしにはこの企業の提示する「100%ガールズ」という表象には、旧来然とした「美しさ」「キレイ」という定義しか読み取ることができない。

 

いまや、世界はいわばポスト・フェミニズムであり、時代の流行はエンパワメントである。日本はまだまだだけど、欧米ではその流れは進んでいて、エンパワメントこそ、フェミニズムこそが「売れる」と考えられている時代である。

少し前に欧米ではセレブがこぞって自らがフェミニストであると表明し、そしてそれに対して「商業的フェミニズム」「セレブ・フェミニズム」という批判が起こった。アンディ・ゼイスラーなんかが、特にフェミニズムの商業化を批判してたんだけど。

Celebrity Feminism: More Than a Gateway | Signs: Journal of Women in Culture and Society

おそらくいま日本で起こっている「エンパワメント」という流れも、このフェミニズムの商業的という文脈で批判されるべきなのであろう。「エンパワメントのような何か」を「エンパワメント」として提示し、女性の購買意欲をかき立てること、そういう戦略的なフェミニズムがこれからたくさん出てくるだろう。

でもわたしたちは、その度に、そこに提示されるメッセージを、その表象を、きちんと考えなくてはいけないと思う。わたしたちは考えることをやめてはならない。

 

(補足) まあたしかになんていうのかな、資本主義的な消費活動と、フェミニズムっていうのは相反することだと思う。けれども、女性の購買というものを目的としたときに企業が打ち出すフェミニズストとしての姿勢、多様性という表象やメッセージは、必ずしも頭ごなしに否定されていいものなのかとも思う。

この資本主義社会の中で、消費活動として何かを買うとき、そりゃもちろんわたしたちに向けて脅して買わされるより、ポジティブなメッセージのもとで気持ちよく消費活動をしたいと思うのももっともなわけで....難しいよね。わたしは少なくともポジティブなメッセージを与えられて、良い気持ちで物を買いたいと思う。だからこそ、「フェミニズムの仮面を被ったなにか」、つまりその仮面の下にある旧来然とした価値観には、注意深くなりたいと思うのである。

 

 

 

クィアな物語としての「オクジャ」

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韓国ドラマ「シグナル」を見て以降、「殺人の追憶」を見たくてたまらなくて、今日時間を作ってみたのだけれども、それでそのあとどうしてもNetflixオリジナル映画の「オクジャ」を見たくなって、見たんですね。それでめっちゃ気づいたことがあるんですよ!おなじみの「そこまでしなくてもいいんじゃない?」のわたしの深読み大炸裂ですけど!えへ!というわけで書きます。

 

1) 「殺人の追憶」と「オクジャ」の関連性

「オクジャ」において、ミジャが誘拐されたオクジャを追いかける時に着る服は「赤色」のジャンパーであり、この赤色のジャンパーというのは「殺人の追憶」で最初の3人の被害者が来ていた服の色である。つまり、「殺人の追憶」という映画では性的暴行および殺人の被害者としての色であった赤色をミジャは纏っているのだけれども、今回ミジャは被害者(ではあるんだけれども)としてではなく、奪われた友人のオクジャをどこまでも追いかけ、取り戻そうとする自らの意志と行動力を伴った女性として、「殺人の追憶」の被害者たちとはまた違った意味で、その赤色のもつ、被害者性や、他者の性的欲望の捌け口とされる呪縛を解き放つ存在としてのキャラクターなのではないだろうか。

 

2) 同性愛の物語としての「オクジャ」

表面的には動物愛護や食料生産などを訴える物語をして読むことのできる「オクジャ」であるが、わたしはこれを「シェイプ・オブ・ウォーター」以前の、「人間」と「人間ではないもの」の「愛」の物語であると読み解きたい。

例えば、ALFのメンバーであるシルバーとブロンドはゲイカップルであるわけで(*1)、そう考えてみるとこの物語にクィアなコードが隠されていても全く驚くことではないだろう。しかし映画中では彼らがお互いを大切にしている描写はあるが、ゲイカップルであるとは明確に示されることはないから、気づかない人もいるのかも。でもゲイカップルが出てるからってわざわざ「この2人はゲイカップルですよ!」なんてアピールする必要は全然ないわけで、そういう意味でも「オクジャ」の描写はとても良いよね。

そして、オクジャとミジャの関係性は映画を見る通りとても親密である。誰にも明かされない(それは観客にも明かされることはない)2人だけの愛の囁きを持っており、オクジャがミジャから引き離されたとき、ミジャは命がけでオクジャを取り戻そうとする。オクジャは雌のスーパーピッグであることは映画中でも明らかにされており、この2人の親密さを鑑みると、ミジャとオクジャはレズビアン・カップルの暗喩と捉えることができるのではないか。そして、彼女たちが乗り越える別離と苦難、そしてパートナーを取り戻す過程を経て、この恋人たちは、子供を授かる。食肉加工場の屠殺待機場所にいたスーパーピッグから、子豚を託される場面がそこに相当するわけだけれども、パク・チャヌクの映画において、新しい家族を獲得するとき、その新しい子供は「口から」生まれる。「グエムル 漢江の怪物」では、怪物の口からヒョンソ(カンジュの娘)と少年(のちにカンジュと暮らし、彼の息子のような存在になる)が怪物の口から生まれ直すことで、血縁は異なった新しい家族が作られることになる。

「オクジャ」においても(舞台上で自らが噛みついたミジャの腕の傷をオクジャが舐めるところは、明らかに「グエムル 漢江に怪物」の怪物が側溝へ連れて行ったヒョンソの顔をベロリと舐めるシーンのオマージュになっているように思えるのだが)スーパーピッグの子供は、オクジャの口に隠され、そこからミジャとオクジャ、スーパーピッグの子供という、血縁の関係がない家族が誕生する。この3人を家族として考えると、ミジャとオクジャがカップルであると考えられるのではないだろうか。

 

3) 金の豚(追記したよ!)

ミジャとオクジャの物語がただ少女とペットの友情の物語以上のものである得ると解釈できるのは、「金の豚」の存在もあるのではないか。

オクジャがNYへと連れさられる際に、ミジャの祖父がミジャに(本来ならオクジャを買い戻すためだったお金で購入した)金の豚を「韓国では嫁に行く娘に金を持たせるからな。」と言って渡すのだけれども、ミジャはこの金の豚を使ってオクジャを取り戻す。ここには、オクジャの所有者であるミランド・コーポレーションとの合理的な、資本主義的売買という側面があるけれども、この金の豚に込められた「結納金」という意味をもって考えれば、ここでミジャとオクジャはミランドに結納金を支払い、結婚したとも取れるだろう。そしてその帰り道に子供を授かる。つまり、やっぱりこの物語はミジャとオクジャのクィアな物語なんじゃないかと思うわけである。

 

というわけで、「オクジャ」をクィアに(?)読み解いてみたんだけど、どうだろう。

 

(*1) Netflix blockbuster Okja features a gay couple, but you might not have noticed · PinkNews

「デッドプール2」における人種的ステレオタイプ

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見てきました「デッドプール2」!ということで個人的に気になったことを考えます。ちなみにわたしは「デッドプール1」もさほど嫌いではなくて(ワルな俺ちゃんの物語を青春ロマンスものという文脈で物語ったのはすごい面白かったと思うし)、けれどもやっぱり気になったところもあって、その気になったところが「デッドプール2」をみてさらに深まったというかんじです。ので自分の中で結論なんて出ちゃいないんだけど、ツイッターでぼちぼち書くのも長くなっちゃってお目汚しなのでこっちにまとめます。

 

デッドプール2」はかねてから、反差別映画、そして多様性を描いた家族映画としての評判が高く、その点でも評価されてるようにざっと感想を読んだ限りでは思う。わたしはその評価にも少し疑問を感じていて、そこらへんにも触れられたら。

 

デッドプール2」でいわゆるセクシュアル・マイノリティに括られるであろうキャラクターはデッドプール(パンセクシュアル)とネガソニックちゃん(レズビアン)だと思うんだけど、これに関してはいままでマーベルで頑なに描写が忌避されてきたレズビアンカップルを登場させたことの功績は大きいと思う。セクシュアリティについては結構普通にマイノリティと呼ばれる人たちも登場させてる。

その一方で気になるのは人種的マイノリティたちの描写である。以下それについて考えてみますね。

 

あっ、あと考察には載せないけど、コロッサスも1のときからバリバリのロシア系ステレオタイプだよね。

 

1) ドーピンダー 

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インド系のドーピンダーは、「デッドプール」のときからのキャラクター、1でもデップーに料金を踏み倒されたり、デップーの適当なアドバイスを間に受けて好きな女の子の彼氏を誘拐したりしてる、ありがちなコミックリリーフ的な存在だった。

デッドプール2」では、ドーピンダーは(なんと!)冒頭から「僕はスーパーヒーローになりたい。僕のスーパーパワーは勇気だ!」と自らの野望を語る。

しかし、デッドプールには軽くあしらわれ、次の場面ではウィーゼルのバーで「なんでモップがけがスーパーヒーローになることと関係あるんです?」とか言いながら雑役をさせられている。しかもなんだかスーパーヒーローになるためにここで働くようにと丸め込まれた雰囲気すらある。

一方、劇中でドーピンダーと同じようななんのパワーも持たない人物で、なぜかスーパーヒーローになってしまう人物がいる。スーパーヒーロー募集広告を見て「なんか楽しそうだから!」とノリで応募、そしてなぜか「合格!」つってX-FORCE加入のピーターである。ピーターは、WASP的なキャラクターであり、ピーターの加入によって、「ヒーローに入れてもらえないインド系エスニシティのドーピンダー」と「やすやすとヒーローになれる白人男性のピーター」という二項対立が描かれる。

こうしてはじめて(ピーターの登場によって)、この映画におけるドーピンダー描写の意図が理解できるようになると思うのだが、つまりこれは「夢を持っていても、社会的にその夢を叶えることが許されず、社会的に雑用と思われる仕事しかさせてもらえないアジア系男性」と「なんかわかんないけどノリでヒーローになりたいって言ったらすんなりヒーローにしてもらえちゃう特権階級の白人男性」という描写なんですね。

これはおそらく制作側が明確に意図した人種差別批判であるのだけれども、しかしそれを理解した上で、そのドーピンダーの扱いをギャグとして笑えるか?という問題が浮上する。つまり、現実として搾取される移民(アジア系とか問わずね)と、特権階級にいる白人男性という明確な格差が存在するわけで、それがなかなか改善しない中で、これをギャグにしちゃうには早すぎない?とも思うのである。ヒーロー映画のメタとしての「デッドプール」という位置付けであれば、逆にこんなステレオタイプに満ちた描写よりもっとなんかできたんじゃない?!とも思うのね。

最終的にドーピンダーは、ある活躍を見せるのだけれど、それもまたコミックリリーフとしてのステレオタイプ的役割を脱することのない活躍であり、ファミリーに入ったような気配はあるけれど、ファミリーでもコミックリリーフ的なステレオタイプ扱いだったなら、それこそドーピンダーはトークンであると結論付けられても仕方ないのではないか。(これは続編見ないとわかんないけどね)

 

2) ユキオ

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ユキオについては映画の公開前から髪の毛のメッシュがアジア系女性のド・ステレオタイプと言われてたキャラクターだけど、こちらはネガソニックちゃんの恋人として登場する。(つまり人種的マイノリティでもあり、セクシュアル・マイノリティでもあるということ。)

ユキオは劇中真っピンクの髪の毛をしていて、教えてもらったんだけど、戦う時だけメッシュになるという設定。アジア系女性ののステレオタイプ的表象として、ピンクや紫などのメッシュが入っている(*1)というのがあって、これは度々批判されてきてる。このメッシュというのがどのような意味を持つかというと

If you're not familiar with the concept, the "Asian hair streak" cliché is when an East Asian character has a streak of neon dye in their hair, often to signal that they're rebellious. It's present in all sorts of movies and TV shows, from "Glee" to "Big Hero 6."

'Deadpool 2' character Yukio brings back 'Asian hair streak' trope - Business Insider

つまりネオンカラーのヘアメッシュは、彼らが通常おとなしくて従順とされるアジア系のステレオタイプとは違う、反抗的なキャラクターであるということを示している、と。(ねえすごくない?おとなしくて従順というステレオタイプとから逸脱させるためのステレオタイプがメッシュヘアーだよ?!ステレオタイプ入れ子構造かよ?!アジア系女性キャラクターはこれくらいステレオタイプ化しないと描けないかってことだよね。ダメじゃん。)

で、まあこれもそう、ステレオタイプ通り。超クリシェ

しかもユキオは、鼻にかかったような声で劇中「ハーイ!」と「バーイ!」を繰り返すのみ。これもアジア系(ていうか日本人)女性のステレオタイプだよね。ニコニコニコニコ愛想がよくて、鼻にかかったような、いわゆる幼稚な声色をしているっていう。

ドーピンダーみたいに「あっこれは現実批判だね?」みたいな余地ないがくらいステレオタイプでは...という気持ちになってきました。

(ユキオの表象から、マーベルにおけるアジア系キャラクターの表象については以下のBustleの記事がよかったです。)

After 'Deadpool 2', We Need To Talk About How Asian Women Are Depicted In Marvel Movies

ユキオもいちおう最後の場面で「ハーイ!」「バーイ!」という以外の活躍を見せるんだけど、これもなんというかドーピンダーの活躍とおなじでとってつけたようなかんじであることは否定できないと思う。マイノリティの活躍がものすごいトークン的なんだよね....でもこれもアメコミのメタをやるデッドプールだから、そのステレオタイプ批判としてやってる、って言われたらもうそうですか、って。メタなんだもんね、メタって便利だ。もしかしたら無意識にやってるステレオタイプな描写も、受け手は「メタ映画なんだから、意図的にやっているアメコミ批判に違いない」と思ってくれる。ある意味デッドプールにおける不謹慎ギャグ(これさ、反?人種差別ギャグめっちゃあったけど、ギャグにしてる部分は全部「トンチンカンなアンチ人種差別」みたいなやつが多いんだよね。たとえば、ブラック・トムのことを「彼はブラックなんだから!」「彼を殺すなんてお前(ケーブル)は人種差別主義者だな?!」っていギャグがあるんだけど、ブラック・トムってJack Kesyっていう白人男性によって演じられてる。じつはトンチンカンなやつで、別に反人種差別的なギャグではなくて、むしろ過剰なポリコレみたいなのを揶揄してるんだと思うんだよね)も、ステレオタイプ描写も、その映画の構造によって、受け手に解釈を丸投げしているようなものなのかもしれないね...なんかわかんなくなってきた。

 

3) ファイアーフィスト

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ファイアーフィストはマオリニュージーランド人のジュリアン・デニンソンによって演じられており、マオリ系もまた映画ではなかなか登場することがないマイノリティである。 で、しかも劇中で「スーパーヒーロー業界はファットフォビア(肥満嫌悪)があるから僕はスーパーヒーローになんかなれない」というように、やや太めの体格をしている。また彼は、ミュータントの子供達のための養護施設でひどい虐待をうけていて、そこから将来ヴィランになってしまうのをデップーが防ぐみたいなのがメインプロットなんだけど。虐げられたものをデッドプールが救う話なのね。これって!デッドプールってなんていうかアンチヒーロー的というか、不謹慎なキャラクターと思われてるけど、映画のプロット的にはものすごくステレオティピカルなんだよね。簡単に言うと弱いもの、虐げられたものを救うヒーローのお話、これがメインプロットになってて、もしかしてこの映画自体がものすごくメタフィクションなんですよね。だからなんか「すごい家族映画!」という感想はそれはそうでなければならないわけで...メタ映画だから....

 

なんかもうよくわかんなくなってきた!でもメタフィクションだから、とはいえいい加減そこらへんの人種差別的ステレオタイプ描写にはわたしたちも辟易してるよね...と言いたかった。以上です。

 

でもずるいなーって思うのは全てのステレオタイプな描写をどんなに批判したところで「これメタだから」って言われたら全ての批判をはねかえせるところ。つよいよな...ずるい。

 

3月の読書

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もとはといえば読書ブログなのに気づいたら手早くかける映画の感想ブログになってない?!ということで月ごとに読んだ本まとめようかなと思いやした!読書すごいしてると思われがちなわたしだけど、全然そんなことないんだぜ!みんな安心して!!

 

ジョジョモイーズ「ワン・プラス・ワン」

YAだし気軽に読めそうだから旅行のお供に、と持って行ったんだけどこれがものすごく良い本で、旅行中夢中で読んだ上に妹の家でボロ泣きしました。

どん底からどうにか抜け出そうとするけど、人生そんなに甘くないっていうめちゃくちゃつらい現実を読者に突きつけつつも、ラブストーリーという軸で読者を甘やかしてくれる傑作でした...

 

レイ・ブラッドベリ華氏451度」

ブラックパンサー以降、わたしはもうマイケル・B・ジョーダンの虜なわけですよ。その彼がモンターグ役でHBO製作映画化!てきいたら再読せざるを得ないよね....で、ディストピアものと呼ばれるジャンルもの読むたびに「ディストピアっていうかもはや"今"じゃん」て思うんだけど...さ.....ぜんぜん他人事みたいに「えー!やだー!こうなったらこわーい」みたいなテンションではよめなくて「いやいや、もう片足突っ込んでますがな」というかんじよね...

 

ケン・リュウ編「折りたたみ北京」

わたしSFって苦手なんですよ。SFって読むとき脳みその理数系の部分を使うと個人的に思ってて、わたしの脳みそってその理数系の部分が虚無になってるんですね。だからSF読んでも大抵よくわかんなくて終わっちゃうんだけど、ケン・リュウはわたしの脳みそのエモの部分をガンガン刺激してくるので大好きなんです。そのケン・リュウが中国SFを選出したアンソロジーなんですけど、むちゃくちゃエモくてよかったです....あとケン・リュウの「作品の中に中国国家に対する作者のメッセージを読み取ろうとするのは読者のエゴだ」みたいな前書きが最高でした。たしかに当てはめたくなっちゃうよね....という自戒もこめて。

 

ヤア・ジャシ「奇跡の大地」

詳しくは別の記事にまとめましたが、アフリカ大陸から連なるある一族のひとちひとりの人生を断片的に切り取っただけでこんなにも圧倒的な力のある長編を書き上げて、しかもこれがデビュー作って!!これからの彼女の活躍がとても楽しみです。マーベル映画「ブラックパンサー」を見たあとに読めてとても良いタイミングだった。

 

チゴズィエ・オビオマ「僕たちが漁師だったころ」

さめやらぬアフリカ熱のなか、読みました。こちらはアフリカが舞台になっているんだけど、このひとつの物語がナイジェリアという国家の歴史に重なり合うという解説を読んでハッとした。オビオマもこの作品(デビュー作)でブッカー賞ノミネート、1986年生まれって、すごい。あとアフリカ文学は越境の文学であるということ、言われてみればたしかにそうなんだよね。もういまや「XX(任意の国名が入る)文学」何ていう概念は古臭いのかもしれない。